される事になるかも知れないのだからね。ハッハッハッハッ」
正木博士は一息にこう云ってしまうと口一パイの白い義歯を露《あら》わしつつ高らかに笑って見せた。その片手に眼の前の新聞の包みを引き寄せて、無雑作にガサガサ引き披《ひら》くと、中から長方形の白木の箱が出た。その蓋を今度は叮嚀な手付きで開いて、直径三寸、長さ六寸位の鬱紺木綿《うこんもめん》の包みを取り出すと箱のふちに一端を載せて、その上からソッと蓋を置きながら、私の前に押し進めた。
今まで弛《ゆる》み加減になっていた私の全神経は、正木博士の高やかな笑いの波動のうちに、見る見る一パイに緊張して来たのであった。
……冷《ひや》かしているのか……威嚇《いかく》しているのか……又は何等かの暗示を与えているのか、それとも亦《また》……心安立てに冗談を云っているのか……全く見当のつかないその笑い顔を見ているうちに、私は又もその笑い顔の持ち主が、世にも恐るべく、戦慄すべき魔法使いその者のように見えて来て仕様がなかった。しかし又それと同時に……
[#ここから1字下げ]
……何を糞ッ……高の知れた絵巻物の一巻に、男一匹が発狂するまで飜弄されるような事が、あり得よう筈はない……ドンナ名人の手に成った如何にモノスゴイ絵であるにしろ、要するに色と線との配合以外の何者でもないだろう。況《いわ》んやこっちで覚悟をしている以上、何の恐ろしい事があろう……ヨシッ……
[#ここで字下げ終わり]
というような反抗心が見る見る高まって来るのを押え付ける事が出来なかった。
……だから私はできるだけ冷静な態度で箱を引き寄せた。そうして木の蓋と、鬱紺木綿を開くと、又も、どことなく緊張しかけて来た感情を押え付けようと力《つと》めつつ、まず絵巻物の外側から見まわした。
巻物の軸は美しい緑色の石で八角形に磨いてあるが、あまり美しいので思わず指を触れて撫で廻してみた位であった。表装の布地《きれ》はチョット見たところ織物のようであるが、眼を近づけて見るとそれは見えるか見えぬ位の細かい彩糸《いろいと》や金銀の糸で、極く薄い絹地の目を拾いつつ、一寸大の唐獅子の群れを一匹|毎《ごと》に色を変えて隙間《すきま》なく刺した物で、貴いものである事がシミジミとわかって来る。千年も昔のものだというのにピカピカと新しく見えるのは、叮嚀に蔵《しま》ってあったせいであろう。その一隅には小さな短冊型の金紙が貼りつけてあるが、何も書いた痕《あと》はない。
「それが問題の縫《ぬ》い潰《つぶ》しという刺繍なんだよ。呉一郎の母の千世子は、それを手本にして勉強したに違いないのだ」
と正木博士は投げ遣るように説明しつつ、クルリと横を向いて葉巻を吹かし初めた。しかし私も丁度そんなような聯想を頭に浮かめていたところだったので、格別驚きもせずにうなずいた。
象牙の篦《へら》を結び付けた暗褐色の紐を解いて巻物をすこしばかり開くと、紫黒色の紙に金絵具《きんえのぐ》で、右上から左下へ波紋を作って流れて行く水が描いてあるが、非常に優雅な筆致《ふでつき》に見えた。私はその青暗い平面に浮き出している夢のような、又は細い煙のような柔らかい金線の美しい渦巻きに魅せられながら、何の気もなくズルズルと右から左へ巻物を拡げて行ったのであったが……やがて眼の前に白い紙が五寸ばかりズイとあらわれると、私は思わず……
「……アッ……」
と叫びかけた。けれどもその声は、まだ声にならない次の瞬間に咽喉《のど》の奥へ引返してしまった。……巻物を両手に引き拡げたまま動けなくなってしまった。息苦しい程胸の動悸が高まって……。
そこに横たわっている裸体婦人の寝顔……細い眉……長い睫毛《まつげ》……品のいい白い鼻……小さな朱唇……清らかな腮《あご》……それはあの六号室の狂美少女の寝顔に生き写しではないか……黒い、大きな花弁《はなびら》の形に結《ゆ》い上げられた夥しい髪毛《かみのけ》が、雲のように濛々《もうもう》と重なり合っている……その鬢《びん》の恰好から、生え際のホツレ具合までも、ソックリそのままあの六号室の少女の寝姿を写生したものとしか思われないではないか…………。
しかしこの時の私には「何故」というような疑問を起す余裕がなかった。その寝顔……否、眠っているかのように見える表情の下から、微妙な彩色や線の働らきによって見え透いて来る死人の相好《そうごう》の美くしさ……一種|譬《たと》えようのない魅力の深さに、全霊を吸い寄せられ吸い奪われてしまって、今にもその眼がパッチリと開きはしまいか。そうして最前のように「アッ……お兄様ッ……」と叫んで飛び付いて来はしまいか……というような、あり得べからざる予感に全神経を襲われつづけていたのであった。瞬《まばたき》一つ出来ず、唾液一つ呑み込み得ないま
前へ
次へ
全235ページ中184ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング