まに、その臙脂《えんじ》色の薄ぼけた頬から、青光りする珊瑚《さんご》色の唇のあたりを凝視していたのであった。
「ハッハッハッ。馬鹿に固くなっているじゃないか。エー……オイ。どうだい。大したものだろう。呉青秀《ごせいしゅう》の筆力は……」
 絵巻物の向うから正木博士がこんな風に気軽く声をかけた。しかし私は依然として身動きが出来なかった。唯やっと切れ切れに口を利く事が出来ただけであった。今までと丸で違った妙なカスレた声で……。
「……この顔は……さっきの……呉モヨ子と……」
「生き写しだろう……」
 と正木博士はすぐに引き取って云った。その途端に私は、やっと絵巻物から眼を外《そ》らして、正木博士のこっちに振り向いた顔を見る事が出来たが、その顔には一種の同情とも、誇りとも、皮肉とも何ともつかぬ笑いが一面に浮き出していた。
「……どうだい面白いだろう。心理遺伝が恐ろしいように肉体の遺伝も恐ろしいものなんだ。姪の浜の一農家の娘、呉モヨ子の眼鼻立ちが、今から一千百余年|前《ぜん》、唐の玄宗皇帝の御代《みよ》に大評判であった花清宮裡《かせいきゅうり》の双※[#「虫+夾」、第3水準1−91−54]姉妹《そうきょうきょうだい》に生き写しなんていう事は、造化の神でも忘れているだろうじゃないか」
「……………」
「歴史は繰り返すというが、人間の肉体や精神もこうして繰り返しつつ進歩して行くものなんだよ。尤《もっと》もコンナのはその中でも特別|誂《あつら》えの一例だがね……呉モヨ子は、芬《ふん》夫人の心理を夢中遊行で繰り返すと同時に、その姉の黛《たい》夫人が、喜んで夫の呉青秀に絞め殺された心理も一緒に繰り返しているらしい形跡があるのを見ると、二人の先祖にソンナ徹底したマゾヒスムスの女がいて、その血脈を二人が表面に顕《あら》わしたものかも知れぬ。又は呉青秀を慕う芬女の熱情が、思う男の手にかかって死んだ姉の身の上を羨ましがる位にまで高潮していたと認められる節《ふし》もある。しかしそこまで突込んで行かずともその絵巻物の一巻が、呉青秀と、黛芬姉妹の夫婦愛の極致を顕《あら》わしていることはたやすく解るだろう……とにかくズット先まで開いて見たまえ。呉一郎の心理遺伝の正体が、ドン底まで曝露して来るから……」
 私はこの言葉に追い立てられるように、半ば無意識に絵巻物を左の方へ開いて行った。
 それから順々に白紙の上に現われて来た極彩色の密画を、ただ、真に迫っているという以外に何等の誇張も加えないで説明すると、それは右を頭にして、両手を左右に伏せて並べて、斜《ななめ》にこっち向きに寝かされた死美人の全長一尺二三寸と思われる裸体像で、周囲が白紙になっているために空間に浮いているように見える。それが間隔三四寸を隔てて次から次へと合わせて六体在るのであるが、皆殆ど同じ姿勢の寝姿で、只違うのは、初めから終りへかけて姿が変って行っている事である。
 すなわち巻頭の第一番に現われて私を驚かした絵は、死んでから間もないらしい雪白《せっぱく》の肌で、頬や耳には臙脂《えんじ》の色がなまめかしく浮かんでいる。その切れ目の長い眼と、濃い睫毛《まつげ》を伏せて、口紅で青光りする唇を軽く閉じた、温柔《おとな》しそうなみめかたち[#「みめかたち」に傍点]を凝視していると、夫のために死んだ神々しい喜びの色が、一パイにかがやき出しているかのように見えて来る。
 然《しか》るに第二番目の絵になると、皮膚《はだ》の色がやや赤味がかった紫色に変じて、全体にいくらか腫《は》れぼったく見える上に、眼のふち[#「ふち」に傍点]のまわりに暗い色が泛《うか》み漂《ただよ》い、唇も稍《やや》黒ずんで、全体の感じがどことなく重々しく無気味にかわっている。
 その次の第三番目の像では、もう顔面の中で、額と、耳の背後《うしろ》と、腹部の皮膚の処々が赤く、又は白く爛《ただ》れはじめて、眼はウッスリと輝き開き、白い歯がすこし見え出し、全体がものものしい暗紫色にかわって、腹が太鼓のように膨《ふく》らんで光っている。
 第四の絵は総身が青黒とも形容すべき深刻な色に沈みかわり、爛れた処は茶褐色、又は卵白色が入り交《まじ》り、乳が辷《すべ》り流れて肋骨が青白く露《あら》われ、腹は下側の腰骨の近くから破れ綻《ほころ》びて、臓腑の一部がコバルト色に重なり合って見え、顔は眼球が全部露出している上に、唇が流れて白い歯を噛み出しているために鬼のような表情に見えるばかりでなく、ベトベトに濡れて脱け落ちた髪毛《かみのけ》の中からは、美しい櫛や珠玉の類がバラバラと落ち散っている。
 第五になると、今一歩進んで、眼球が潰《つい》え縮み、歯の全部が耳のつけ根まで露われて冷笑したような表情をしている。一方に臓腑は腹の皮と一緒に襤褸切《ぼろき》れを見るように黒
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