思われる。何しろ日本人の大好きな忠勇義烈譚と来ているからね」
「そうですねえ。……それから今ヒョット思い出したんですが、その勝空という坊さんは、その絵巻物を弥勒像に納めてから、男は一切近づいてはいけないと云ったそうですが、それはどうした理由《わけ》でしょう」
「……ソ……そこだて……そこがトテモ面白いこの話の眼目になるところで、延《ひ》いては大正の今日に於ける姪《めい》の浜《はま》事件の根本問題にまで触れて来るところなんだ。手っ取り早く云えばその勝空というお坊様は、今から一千年近くもの大昔に、心理遺伝チウものがある事をチャンと知って御座ったのだ」
「ヘエ――ッ……そんなに大昔から心理遺伝の学問が……」
「あったどころの騒ぎじゃない。あり過ぎて困る位あった。……すなわち宇宙間一切のガラクタは皆、めいめい勝手な心理遺伝と戦いつつ、植物・動物・人間と進化して来たもので、コイツに囚《とら》われている奴ほど自由の利かない下等な存在という事になる。だから思い切って今のうちにキレイサッパリと心理遺伝から超越しちまえ。ホントウに解放された青天井の人間になれ……という宣言《プロパガンダ》を、新生《アラキ》のまま民衆にタタキ付けたのが基督《キリスト》で、オブラートに包んで投《ほう》り出したのが孔子で、おいしいお菓子に仕込んで、デコデコと飾り立てて、虫下しみたように鐘や太鼓で囃《はや》し立てて売り出したのがお釈迦様という事になるんだ。そこで、そんな連中の専売特許のウマイところだけを失敬して『心理遺伝』なぞいう当世向きの名前で大々的に売り出して百パーセントの剰余価値を貪《むさ》ぼろうと企てているのが、ここにいる吾輩という事になるがね……ハッハッハッ……まあ、そんな事はドウでもいいとして、勝空という坊さんの名前はどうやら天台宗らしいから、多分法華経あたりを読んでこの理屈を悟ったんだろう……。
この絵巻物を見るとタッタ一眼で過去、現在、未来の三世の因果因縁がナアール程とわかった。呉青秀《ごせいしゅう》の子孫がこれを見ると同時に遺伝心理を刺戟されて、先祖の真似を初めるのは無理もない。ケンノンケンノン……不憫《ふびん》至極な事と思ったのであろう。世界の一番おしまいに出て来るという弥勒菩薩《みろくぼさつ》の像を刻《きざ》んで、その中に封じ込めて『男見るべからず』と固く禁制しておいた。……ところが見てはいけないと云われるとイヨイヨ見たくてたまらなくなるのが『安達《あだち》ヶ|原《はら》』以来の人情だもんだから、呉青秀の子孫の中《うち》にコッソリと、弥勒様の首を引き抜いて、絵巻物を取り出して見る奴が出て来た。そいつがみんなキチガイになって暴れ出した訳なんだが、そこへやって来たのが呉虹汀《くれこうてい》の美登利屋坪太郎《みどりやつぼたろう》だ……こいつが又、禅学か何かの力で、この心理遺伝の作用を看破して、一思いに絵巻物を焼いて終《しま》おうとした。……か、どうか知らないが、おおかた惜《おし》かったんだろう……表面は焼いたふりをして、実は焼かずに元の穴へ納めて、巻物の供養を大々的にやったりしてお茶を濁しておいた。その絵巻物が又、現代の物質万能の世界に大見得《おおみえ》を切って出現して、恐るべき悲劇を捲き起した……というのが大体の筋道だがね……」
「ハア……やっと解ったようですが……しかしその絵巻物を見てキチガイになるのが男に限っているのは何故《なにゆえ》でしょうか」
「ウムッ……豪《えら》い。豪いぞ君は……ステキな質問だぞ、それは……」
と云ううちに正木博士は突然にテーブルを平手でタタイたので、私はビックリして座り直した。何だか解らないままに胸をドキンとさせながら……。しかし正木博士は委細構わずに言葉を続けた。
「イヤ感心感心。この事件の興味のクライマックスは実にそこに在るんだ。スッカリ心理遺伝学の大家になっちゃったナ。君は……」
「……ドウしてですか……」
「ドウシテじゃない。まあこの絵巻物を開いて見給え。今の疑問は一ペンに解けてしまうから……もっとも、それと同時に君がホントウの呉一郎ならば、呉青秀の子孫としての心理遺伝的夢遊をフラフラと初めるか初めないか……又は自分はどこそこの何の某《それがし》という者で、ドンナ来歴でこの事件に関係して来たかという過去の記憶を一ペンにズラリと回復するかしないか……それとも又『この絵巻物はこの前に、いつどこで、どんな奴から見せられた事がある』という、この事件の黒星のまん中をピカリと思い出すか出さないか……若林と吾輩のドッチが勝つか負けるか……そうして最後に君の将来は如何なる因果因縁の下に、イヤでもあの美しい令嬢とスイートホームを作らなければならぬのか……というようなアラユル息苦しい重大問題がこの絵巻物を見ると同時に、一ペンに解決
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