る。あなたは御存知あるまいが、あなたが姉さんの亡骸《なきがら》を写生し初めた昨年の十一月というのが安禄山が謀反《むほん》を起した月で、天宝の年号は去年限り、今は安禄山の世の至徳元年だ。天子様も楊貴妃様も、この六月に馬嵬《ばかい》で殺されてお終《しま》いになった。折角の忠義も水の泡です。それよりも妾と一緒に、どこかへ逃げて下さらない……とキワドイところで口説《くど》き立てた」
「無鉄砲な女ですね。又殺されようと思って……」
「イヤ。今度は大丈夫なんだ。……というのは呉青秀先生、自分の全部を投げ出してかかった仕事がテンからペケだった事が、芬子の説明で初めて解ったのだ。そこでアメリカをなくしたコロンブスみたいにドッカリとそこへ座ると、茫然自失のアンポンタン状態に陥ったまま、永久に口が利けなくなってしまったのだ。旧式の術語で云うと心理の急変から来る自家障害という奴だね。……そいつを見ると芬子さんイヨイヨ気の毒になって、天を白眼《にら》んで安禄山の奸《かん》を悪《にく》んだね。同時にこの忠臣のお守りをして、玄宗皇帝や楊貴妃の冥福を祈りつつ一生を終ろうという清冽《せいれつ》晶玉《しょうぎょく》の如き決心を固めた……と告白しているが、実は大馬力をかけたお惚気《のろけ》だね」
「……まさか……」
「イヤ。それに違いないんだ。後で説明するがね……そこで呉青秀が懐《ふところ》にしていた姉の遺品《かたみ》の宝玉類を売り払って、画像だけを懐に入れて、妖怪《ばけもの》然たる呉青秀の手を引きながら、方々を流浪したあげく、その年の暮つかた、どこへ行くつもりであったか忘れたが舟に乗って江《こう》を下り、海に浮んだ。すると暴風雨数日の後《のち》、たった二人だけ生き残って絶海に漂流する事又十数日、遂《つい》に或る天気晴朗な払暁《あけがた》に到って、遥か東の方の水平線上に美々しく艤装《ぎそう》した大船が、旗差物《はたさしもの》を旭《あさひ》に輝やかしつつ南下して行くのを発見した。そこで息も絶え絶えのまま、手招きをして救われると、その美しい船の中で、手厚い介抱を受ける事になったが、この船こそは日本の唐津を経て、難波《なにわ》の津に向う勃海使《ぼっかいし》の乗船であった。勃海国というのはその時分、今の満洲の吉林《キーリン》辺にあった独立国で、時々こうして日本に貢物《みつぎもの》を持って来た事が正史にも載っているがね」
「何だかお伽話《とぎばなし》みたいになりましたね」
「ウム。何となく夢幻的なところがやはり支那式だよ。それから芬子さんの涙ながらの物語りで詳しい事情を聞いた船中の者は、勃海使を初め皆、満腔の同情を寄せた。一様に呉氏の生き甲斐のない姿を憐れみ、且《か》つ芬夫人の身の上に同情して、手厚い世話をしながら日本に連れて行く事になったが、その途中のこと、船中が皆眠って、月が氷のように冴え返った真夜半《まよなか》に、呉青秀は海に落ちたか、天に昇ったか、二十八歳を一期《いちご》として船の中から消え失せてしまった。……芬夫人は時に十九歳、共に後を逐《お》おうとして狂い悶えたが、この時、既に呉青秀の胤《たね》を宿して最早《もはや》臨月になっていたので、人々に押し止められながら辛《かろ》うじて思い止《とど》まると、やがて船の中で玉のような男の児《こ》を生んだ」
「やっと芽出度《めでた》くなって来たようですね」
「ウン、船中でも死人が出来て気を悪くしているところへ、お産があったと聞いたので喜ぶまい事か、手《て》ん手《で》に色々なお祝いの物を呉《く》れて盛に芽出度がった上に、勃海使の何とかいう学者が名付け親となって、呉忠雄《ごちゅうゆう》と命名し、大袈裟《おおげさ》な命名式を挙げて前途を祝福しつつ、唐津に上陸させて、土地の豪族、松浦某に托した。そこで芬夫人はその由来をこの絵巻物に手記して子孫に伝えた……めでたしめでたしというわけだ」
「じゃその名文は芬夫人が書いたんですね」
「イヤ。文字はたしかに女の筆附きだが、文章の方はとてもシッカリしたもので、どうしても女とは思えない。処々に韻《いん》を践《ふ》んであったり、熟字の使い方や何かが日本人離れをしているところなぞを見ると、やっぱりその名付親の勃海使が芬夫人の譚《ものがたり》に感激して、船中の徒然《つれづれ》に文案を作ってやったのを、芬夫人が浄書したものではあるまいかと思う。若林はその字体が、弥勒《みろく》像の底に刻んである字と似ているから勝空《しょうくう》という坊主が自分で聴いた話と、昔の文書とを照し合わせて文を舞わしたのじゃないかと云っているが、しかし肉筆と彫刻とは非常に字体が違う事があるから当てにはならない」
「何にしても唐津の港では大評判だったでしょうね……芬夫人の身の上が……」
「無論、大いに一般の同情を惹《ひ》いたろうと
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