描《か》く道具をスッカリ持ち出していらっしゃる様子……これには何か深い仔細《わけ》がある事と思いながら、そのままこの家に落ち付く事にきめましたが、それからというものは今も申しました通り、スッカリ姉さんに化けてしまって、義兄《にい》さんと一緒に帰って来ているような風に出来るだけ見せかけておりました。仕合《しあわ》せと義兄《にい》さんは子供の時から絵を描《か》き初められると、何日も何日も室《へや》に閉じ籠って、決して人にお会いにならない。御飯も碌《ろく》に召し上らない事が多かったと聞いていましたから、近所の人や、お客様を欺《だま》すのには、ホントに都合がよかったのです。……しかし何故《なにゆえ》妾がこんな奇怪《おかし》な事をしていたのかと申しますと、これはジッとしていながら、お二人の行衛を探すのに一番都合の良い工夫だと思ったからです。つまりこうしておりますと、お二人とも世にも名高い御夫婦ですから、万一ほかでお姿を見た者があるとしたら、すぐに妾が怪しまれます。そうしたらそれと一緒に、お二人の行衛もわかる事になるのですから、その時にあとを追うて行けばよい。女の一人身で知らぬ他国を当てどもなく探しまわったとて、なかなか見付かるものではない……と思い付いたからの事です」
「……ヘエ……その妹はなかなかの名探偵ですね」
「ウン……この妹の方は姉と違ってチョットお侠《きゃん》なところがあるようだが、なおも言葉を続けて曰《いわ》くだ……しかし妾のこうした計劃は余り利き目がありませんでした。……というのは妾がこの家に来てから十日も経たぬうちに天下は忽《たちま》ち麻と乱れて兵馬《へいば》都巷《とこう》に満ち、迂濶《うかつ》に外へも出られないようになった。……のみならず、お金はなくなる。家は荒廃する。仕方なしに妾は此家《ここ》の台所に寝起きをして、自分の身に附いたものは勿論のこと、義兄《にい》さん夫婦の家具家財や衣類なんぞを売り喰いにしていましたが、その中《うち》でも一番最後に残しておいたのが姉の新婚匆々時代の紅い服一着と、自分が着ていた宮女の服一着でした。その中でも又、この紅い服は、あく迄も妾を姉さんと認めさせるために外出着としていたものです。又、宮女の服というのは、妾の忘れられない思い出と一緒に取っといたのですが、楊貴妃時代のスタイルで、ウッカリ持ち出すと反逆者の下役人に見咎《みとが》められる虞《おそ》れもありますので、ソックリそのまま寝間着《ねまき》に使っていたのでした。妾はこの一年の長い間、こんなにまで苦心してお帰りを待っていたのです。……それだのに、あなたはイッタイ何のために、姉さんを殺してお終《しま》いになったんですか。そうして此家《ここ》へ何しに帰って見えたんですか。そのお姿はどうなすったんです。姉さんを殺されたくらいなら、妾も序《ついで》に殺してちょうだい……といううちに、ワッとばかりに泣出した」
「ずいぶん姉思いの妹ですね」
「ナアニ。前から呉青秀にモーションをかけていたんだよ」
「……ヘエ……どうして解ります」
「……どうしてって素振《そぶ》りが第一|訝《おか》しいじゃないか。生娘《きむすめ》の癖に、亭主持ちの真似をして、一年近くも物凄い廃屋《あばらや》に納まっているなんてナカナカ義理や物好きでは出来るものじゃないよ。その間に人知れぬ希望と楽しみがなくちゃ……しかも姉の新婚匆々時代の紅い服を着て歩きまわるところなんぞは、ドウ見ても支那一流の、思い切った変態性慾じゃないか。あるいは玄宗皇帝時代に、空閨《くうけい》に泣いていた夥《おびただ》しい宮女たちから受けた感化かも知れないが」
「……ですけども、自分はそう思っていないじゃないですか」
「無論、そんな自省力を持ち得る年頃じゃないさ。殊《こと》に女だから、どんなデリケートな理屈でも自由自在に作り上げて、勝手気儘な自己陶酔に陥って行ける訳さ。気持ちの純な、頭のいい人間の変態心理は、ナカナカ見分けが付きにくいんだよ。……その代りこっちの眼さえ利いて来れば、そこいらの無邪気な赤ん坊や、釈迦、孔子、基督《キリスト》にでも色んな変態心理を見出すことが出来る」
「……驚いたなあ。……そんなもんですかナア……」
「まだまだ驚く話が、今までの話の裏面に隠れているんだが、それは、あとから説明するとして、サテ、少々話が長くなったから端折《はしお》って話すと、その時に呉青秀に迫って、根掘り葉掘り、これまでの事情を聞いた上に、現実の証拠として、自分とソックリの姉の死像を描いた絵巻物を開いて見せられた芬子嬢は、実に断腸《だんちょう》、股栗《こりつ》、驚駭《きょうがい》これを久しうした。けれども結局、義兄夫婦の忠勇義烈ぶりにスッカリ感激して号泣|慟哭《どうこく》して云うには、蒼天蒼天、何ぞ此《かく》の如く無情な
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