か』と掻《か》き口説《くど》く様子を見ると、いか様《さま》、相思の男の死を怨《うら》む風情である。忠義に凝った呉青秀は、この切々の情を見聞して流石《さすが》に惻※[#「隱」の「こざとへん」に代えて「りっしんべん」、487−14]《そくいん》の情に動かされたが、強いて心を鬼にして、その女の背後《うしろ》に忍び寄り、持っていた鍬で一撃の下に少女の頭骨を砕き、用意して来た縄で手足を縛って背中に背負い上げ、鍬を棄てて逃げ去ろうとした。すると忽《たちま》ち背後《うしろ》の森の中に人音が聞えて、女の追手と覚《おぼ》しき荒くれ男の数名が口々に『素破《すわ》こそ淫仙よ』『殺人魔よ』『奪屍鬼《だっしき》よ』と罵《のの》しりつつ立ち現われ、前後左右を取り巻いて、取り押えようとした。呉青秀は、これを見て怒《いかり》心頭に発し、屍体を投げ棄てて大喝一番『吾が天業を妨ぐるかッ』と叫ぶなり、百倍の狂暴力をあらわし、組み付いて来た男を二三人、墓原《はかばら》にタタキ付け、鍬を拾い上げて残る人数をタタキ伏せ追い散らしてしまった。その隙《ひま》に、又も妓女《おんな》の屍体を肩にかけてドンドン山の方へ逃げ出したが、エライもので、とうとう山伝いに画房まで逃げて来ると、担いで来た屍体を浄《きよ》めて黛夫人の残骸の代りに床上に安置し、香華《こうげ》を供え、屍鬼を祓《はら》いつつ、悠々と火を焚いて腐爛するのを待つ事になった。ところがそのうちに又、二三日経つと、思いもかけぬ画房の八方から火烟《ひけむり》が迫って来て、鯨波《ときのこえ》がドッと湧き起ったので、何事かと驚いて窓から首をさし出してみると、画房の周囲は薪が山の如く、その外を百姓や役人たちが雲霞《うんか》の如く取り巻いて気勢を揚げている様子だ。つまり何者かが、コッソリ呉青秀の跡を跟《つ》けて来て、画房を発見した結果、こんなに人数を馳《か》り催して、火攻めにして追い出しにかかった訳だね。その時に呉青秀は、この未完成の絵巻物の一巻と、黛夫人の髪毛《かみのけ》の中から出て来た貴妃の賜物《たまもの》の夜光珠《やこうじゅ》……ダイヤだね……それから青琅※[#「王+干」、第3水準1−87−83]《せいろうかん》の玉、水晶の管《くだ》なぞの数点を身に付けて、生命《いのち》からがら山林に紛れ込んだが、それから追捕を避けつつ千辛万苦する事数箇月、やっと一ヶ年振りの十一月の何日かに都に着くと蹌踉《そうろう》として吾家《わがや》の門を潜った。既に死生を超越した夢心地で、恍惚求むるところなし。何のために帰って来たのか、自分でも解らなかったという」
「……ハア。ホントに可哀相ですね。そこいらは……」
「ウム。ちょうど生きた人魂《ひとだま》だね。扨《さ》て門を這入ってみると北風《ほくふう》枯梢《こしょう》を悲断《ひだん》して寒庭《かんてい》に抛《なげう》ち、柱傾き瓦落ちて流※[#「螢」の「虫」に代えて「火」、第3水準1−87−61]《りゅうけい》を傷《いた》むという、散々な有様だ。呉青秀はその中を踏みわけて、自分の室《へや》に来て見るには見たものの、サテどうしていいかわからない。妻の姿はおろか烏《からす》の影さえ動かず。錦繍《きんしゅう》帳裡《ちょうり》に枯葉《こよう》を撒《さん》ず。珊瑚《さんご》枕頭《ちんとう》呼べども応えずだ。涙|滂沱《ぼうだ》として万感初めて到った呉青秀は、長恨悲泣《ちょうこんひきゅう》遂《つい》に及ばず。几帳《きちょう》の紐を取って欄間《らんま》にかけ、妻の遺物を懐《ふところ》にしたまま首を引っかけようとしたが、その時遅く彼《か》の時早く、思いもかけぬ次の室《へや》から、真赤な服を着けた綽約《しゃくやく》たる別嬪《べっぴん》さんが馳け出して来て……マア……アナタッと叫ぶなり抱き付いた」
「ヘエ――。それは誰なんですか一体……」
「よく見ると、それは、自分が手ずから絞め殺して白骨にして除《の》けた筈の黛夫人で、しかも新婚匆々時代の濃艶を極めた装おいだ」
「……オヤオヤ……黛夫人を殺したんじゃなかったんですか」
「まあ黙って聞け。ここいらが一番面白いところだから……そこで呉青秀はスッカリ面喰《めんくら》ったね。ウ――ンと云うなり眼を眩《ま》わして終《しま》ったが、その黛夫人の幽霊に介抱をされてヤット息を吹き返したので、今一度、気を落ち付けてよく見ると、又驚いた。タッタ今まで新婚匆々時代の紅い服を着ていた黛子さんが、今度は今一つ昔の、可憐な宮女時代の姿に若返って、白い裳《もすそ》を長々と引きはえている。鬢鬟《びんかん》雲の如く、清楚《せいそ》新花《しんか》に似たり。年の頃もやっと十六か七位の、無垢《むく》の少女としか見えないのだ」
「……不思議ですね。そんな事が在り得るものでしょうか」
「ウン。呉青秀も君と同感だったらしい
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