。さっきの縁起書とは大違いだ」
「……呉青秀は、こうして十日目|毎《ごと》にかわって行く夫人の姿を、白骨になるまで約二十枚ほどこの絵巻物に写し止《とど》めて、玄宗皇帝に献上し、その真に迫った筆の力で、人間の肉体の果敢《はか》なさ、人生の無常さを目の前に見せてゾッとさせる計劃であったという。ところが何しろ防腐剤なぞいうものが無い頃なので、冬分《ふゆぶん》ではあったが、腐るのがだんだん早くなって、一つの絵の写し初めと写し終りとは丸で姿が違うようになった。とうとう予定の半分も描《か》き上げないうちに屍体は白骨と毛髪ばかりになってしまった……というのだ。……或は科学的の知識が幼稚なために、土葬した屍体の腐り加減を標準にして計劃したのかも知れないが……何にしても恐ろしい忍耐力だね」
「あんまり寒いから火を焚《た》いて室《へや》を暖めたせいじゃないでしょうか」
「……ア……ナルホド。暖房装置か、そいつはウッカリして気が付かずにいた。零下何度じゃ絵筆が凍るからね……とにかく忠義一遍に凝《こ》り固まって、そんな誤算がある事を全く予期していなかった呉青秀の狼狽《ろうばい》と驚愕は察するに余《あまり》ありだね。新品卸し立ての妻君を犠牲にして計劃した必死の事業が、ミスミス駄目になって行くのだから……号哭《ごうこく》、起《た》つ能《あた》わずとあるが道理《もっとも》千万……遂《つい》に思えらく、吾、一度天下のために倫常《りんじょう》を超ゆ。復《また》、何をか顧《かえりみ》んという破れかぶれの死に物狂いだ。そこいら界隈の村里へ出て、美しい女を探し出すと、馴《な》れ馴れしく側へ寄って、あなたの絵姿を描いて差上げるからと佯《いつわ》って、山の中へ連れ込んで、打ち殺してモデルにしようと企てたが……」
「ウワア……トテモ物騒な忠君愛国ですね」
「ウン。こんな執念深さは日本人にはないよ。けれども何をいうにも、ソウいう呉青秀の風釆が大変だ。頬が落ちこけて、鼻が突《と》んがって、眼光|竜鬼《りゅうき》の如しとある。おまけに蓬髪垢衣《ほうはつこうい》、骨立悽愴《こつりゅうせいそう》と来ていたんだから堪《たま》らない。袖を引かれた女はみんな仰天して逃げ散ってしまう。これを繰り返す事|累月《るいげつ》。足跡遠近に及んだので、評判が次第に高くなって、どの村でもこの村でも見付け次第に追い散らしたが、幸いにして山の中の隠れ家を誰も知らなかったので、生命《いのち》だけは辛《かろ》うじて助かっていた。然れ共呉青秀の忠志は遂《つい》に退かず、至難に触れて益々|凝《こ》る。遂《つい》に淫仙《いんせん》の名を得たりとある。淫仙というのはつまり西洋の青髯《ブルーベヤード》という意味らしいね」
「ヘエ……しかし淫仙は可哀相ですね」
「ところがこの淫仙先生はチットモ驚かない。今度は方針を変えて婦女子の新葬を求め、夜陰に乗じて墓を発《あば》き、屍体を引きずり出して山の中に持って行こうとした。ところが俗にも死人|担《かつ》ぎは三人力という位で、強直の取れたグタグタの屍体は、重量の中心がないから、ナカナカ担ぎ上げ難《にく》いものだそうな。それを一所懸命とはいいながら、絵筆しか持ったことのない柔弱な腕力で、出来るだけ傷をつけないように、山の中まで担いで行こうというのだから、並大抵の苦労ではない。あっちに取り落し、こっちへ担ぎ直して、喘《あえ》ぎ喘ぎ抱きかかえて行くうちに、早くも夜が明けて百姓たちの眼に触れた。かねてから淫仙先生の噂を耳にしていた百姓たちは、これを見て驚くまい事か、テッキリ屍姦だ。極重悪人だというので、ワイワイ追いかけて来たから淫仙先生も止むを得ず屍体を抛棄《ほうき》して、山の中に姿を隠したが、もう時候は春先になっていたのに、二三日は、その背中に担いだ屍体の冷たさが忘れられなくていくら火を焚《た》いても歯の根が合わなかったという」
「よく病気にならなかったものですね」
「ウン。風邪ぐらい引いていたかも知れないがね。思い詰めている人間の体力は超自然の抵抗力をあらわすもんだよ。況《いわ》んや呉青秀の忠志は氷雪よりも励《はげ》しとある。四五日も画房の中にジッとして、気分を取り直した呉青秀は、又も第二回の冒険をこころみるべく、コッソリと山を降って、前とは全然方角を違えた村里に下り、一|挺《ちょう》の鍬《くわ》を盗み、唯《と》ある森蔭の墓所に忍び寄ると、意外にも一人の女性が新月の光りに照らされた一基の土饅頭の前に、花を手向《たむ》けているのが見える。この夜更けに不思議な事と思って、窃《ひそ》かに近づいてみると、件《くだん》の女性は、遠い処の妓楼《ぎろう》から脱け出して来た妓女《おんな》らしく、春装を取り乱したまま土盛りの上にヒレ伏して『あなたは何故《なにゆえ》に妾《わたし》を振り棄てて死んだのです
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