…と来たね」
「ウワア。やわらか過ぎます。……それじゃア」
「イヤ。真面目に聞いてくれなくちゃ困る。チャン公一流のヨタなんかコレンバカリも混っていないんだぜ。これがあの四五年前に流行した『ドコマデモ』という俗謡の本家本元なんだ。チャント記録に残っているんだ」
「……ヘエ。そんなもんですかね」
「そうだとも。第一お前さんと一緒ならサハラだのナイヤガラ見たような野暮《やぼ》な処へは行かない。一緒に天に昇って並んだ星になって、下界の人間をトコトンまで羨やましがらせましょうというんだから遣り切れないよ。覗いて聞いていた奴もタイシタ奴に違いないが……」
「しかし、それが絵巻物とドンナ関係があるんですか」
「大ありだ。まあ急《せ》かないで聞き給え。大陸の話だからナカナカ焦点が纏まらないんだよ。いいかい……こんな文化式の天子だから玄宗皇帝は芸術ごとが大好きで、李太白なぞいう、呑んだくれの禿頭《とくとう》詩人を贔屓《ひいき》にして可愛がる一方に、当時、十九か十八位の青年進士呉青秀に命じて、遍《あま》ねく天下の名勝をスケッチして廻らせた。すなわち居ながらにして天下を巡狩《じゅんしゅ》しようという、有難い思召《おぼしめし》だ……ドウヤラ貴妃様の御注文らしいがね」
「絵の天才だったのですねその青年は……」
「無論さ。十八九の青年の癖に、古今に名高い禿頭の大詩人、李太白の詩と並ぶ絵を描く奴だから、生優しい腕前じゃないよ。もっとも運が悪くて夭死《わかじ》にしたために、名前も描いたものも余り残っていない。前にも云った通りその頃の記録には勿論の事、近頃の年代記類にも記載してあるにはあるが、書物によって年代や名前が少し宛《ずつ》違っていて、確実なところはわからないようになっている。しかし、何しろここに詳しい事を記載した実物の証拠があるんだから、将来の史学家はイヤでもこの方を本当にしなければなるまいて」
「そうするとその絵巻物はトテモ貴重な参考史料なんですね」
「貴重などころの騒ぎじゃない……ところで話はすこし前に帰るが、その青年進士呉青秀は、天子の命を奉じてスケッチ旅行を続けている間がチョウド六年で、久し振りの天宝十四年に長安の都に帰って来ると、そのお土産の風景絵巻が、頗《すこぶ》る天子の御意《ぎょい》に召して、御機嫌|斜《ななめ》ならず、芸術家としての無上の面目を施した上に、黛子《たいこ》さんという別嬪《べっぴん》の妻君を貰った。おまけにチョウド水入らずで暮せるような、美しいお庭付きの小ヂンマリした邸宅を拝領したりして、トテモ有り難い事ずくめだったので、暫くは夢うつつのように暮していた訳だね。ところがその中《うち》に、だんだんと落ち付いて来ると、時|恰《あた》かも大唐朝没落の前奏曲時代で、兇徴、妖※[#「(屮/(師のへん+辛)/子」、第4水準2−5−90]《ようげつ》、頻々《ひんぴん》として起り、天下大乱の兆が到る処に横溢しているのに気が付いた。しかも天子様はイクラお側の者が諫《いまし》めても糠《ぬか》に釘どころか、ウッカリ御機嫌に触れたために、冤罪《えんざい》で殺される忠臣が続々という有様だ。……これを見た呉青秀は喟然《きぜん》として決するところあり、一番自分の彩筆の力で天子の迷夢を醒まして、国家を泰山の安きに置いてやろうというので、新婚|匆々《そうそう》の黛夫人に心底を打ち明けて、ここで一つ天下のために、お前の生命《いのち》を棄ててくれないか。いずれ自分も、あとから死んで行くつもりだが……と云ったところが……あなたのおためなら……という嬉しそうな返事だ……」
「トテモ素敵ですね」
「純然たる支那式だよ。それから呉青秀は大秘密で大工や左官を雇って、帝都の長安を距《さ》る数十里の山中に一ツの画房を建てた。つまりアトリエだね。しかしその構造は大分風変りで、窓を高く取って外から覗かれないようにして、真ン中に白布を蔽《おお》うた寝台を据え、薪炭菜肉《しんたんさいにく》、防寒|防蠅《ぼうよう》の用意残るところなく、籠城《ろうじょう》の準備が完全に整うと、黛夫人と一緒にコッソリ引き移った。そうしてその年の十一月の何日であったかに、夫婦は更に幽界でめぐり会う約束を固め、別離の盃、哀傷の涙よろしくあって、やがて斎戒沐浴《さいかいもくよく》して新《あらた》に化粧を凝《こ》らした黛夫人が、香煙|縷々《るる》たる裡《うち》に、白衣を纏うて寝台の上に横たわったのを、呉青秀が乗りかかって絞め殺す。それからその死骸を丸|裸体《はだか》にして肢体を整え、香華《こうげ》を撒《さん》じ神符《しんぷ》を焼き、屍鬼《しき》を祓《はら》い去った呉青秀は、やがて紙を展《の》べ、丹青《たんせい》を按配しつつ、畢生《ひっせい》の心血を注いで極彩色の写生を始めた」
「……ワア……凄い事になったんですね
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