実験が、如何に重大深刻な意味を持っているかを、察し過ぎる位察していながら、些《すこ》しもそんな緊張した気持ちになれなかったのは不思議であった。或《あるい》は飲んだばかりのウイスキーが、いくらか利いていたせいでもあったろうが、却《かえ》って正木博士の真似でもするかのように無雑作に、その綴込みを取り上げて、矢張り無雑作にその第一|頁《ページ》を飜《ひるがえ》したが、見ると中には四角い漢字が真黒に押し固まって、隙間もなく並んでいるのであった。
「ワー。これあ漢文……しかも白文じゃありませんか。句読《くぎり》も送仮名《おくりがな》も何も付いてない……トテモ僕には読めません。これは……」
「フーン。そうかい。フーン、それじゃ仕方がないから、取りあえずその内容の概要《あらまし》を、吾輩が記憶している範囲で話しておくかね」
「ドウカそうして下さい」
「……ウーイ……」
と正木博士は曖気《おくび》をしながら反《そ》り返った。スリッパを穿《は》いたまま椅子の上に乗って、両膝を抱えるとクルリと南側を向いて、頭の中を整理するように眼を半開《はんびらき》にして窓の光りを透かしながら、ホッカリと青い煙を吐いた。
私もウイスキーがまわったせいか、何となく倦《だる》いような、睡たいような気持ちになりつつ、机の上に両肱を立てて顎《あご》を載せた。
「……ゲップ……ウ――イイ……と、そこでだ。そこで大唐の玄宗皇帝というと今からちょうど一千一百年ばかり前の話だがね。その玄宗皇帝の御代《みよ》も終りに近い、天宝十四年に、安禄山《あんろくさん》という奴が謀反《むほん》を起したんだが、その翌年の正月に安禄山は僭号《せんごう》をして、六月、賊、関《かん》に入《い》る、帝《みかど》出奔《しゅっぽん》して馬嵬《ばかい》に薨《こう》ず。楊国忠《ようこくちゅう》、楊貴妃《ようきひ》、誅《ちゅう》に伏す……と年代記に在る」
「……ハア……よく記憶《おぼ》えておられるんですねえ先生は……」
「歴史の面白くない処は、暗記しとくもんだよ。……ところでその玄宗皇帝が薨じたのは年代記の示す通り天宝十五年に相違ないらしいが、それより七年|以前《まえ》の天宝八年に、范陽《はんよう》の進士《しんし》で呉青秀《ごせいしゅう》という十七八歳の青年が、玄宗皇帝の命を奉じ、彩管《さいかん》を笈《お》うて蜀《しょく》の国に入《い》り、嘉陵江水《かりょうこうすい》を写し、転じて巫山巫峡《ふざんふきょう》を越え、揚子江を逆航《ぎゃっこう》して奇勝名勝を探り得て帰り、蒐《あつ》むるところの山水百余景を五巻に表装して献上した。帝これを嘉賞《かしょう》し、故|翰林《かんりん》学士、芳《ほう》九|連《れん》の遺子|黛女《たいじょ》を賜う。黛は即ち芬《ふん》の姉にして互いに双生児《ふたご》たり。相並んで貴妃《きひ》の侍女となる。時人《じじん》これを呼んで花清宮裡《かせいきゅうり》の双※[#「虫+夾」、第3水準1−91−54]《そうきょう》と称す。時に天宝十四年三月。呉青秀二十有五歳。芳黛十有七歳とある」
「これあ驚いた。トテモ記憶《おぼ》え切れない。それもヤッパリ年代記ですか」
「イヤ。これは違う。『黛女を賜う』という一件の前後までは『牡丹亭秘史《ぼたんていひし》』という小説に出ている。その小説には玄宗皇帝と楊貴妃が、牡丹亭で喋々喃々《ちょうちょうなんなん》の光景を、詩人の李太白《りたいはく》が涎《よだれ》を垂らして牡丹の葉蔭から見ている絵なぞがあって、支那一流の大|甘物《あまもの》だが、その中でも、呉青秀に関する記述の冒頭だけは、この由来記の内容と一字一句違わないから面白いよ。そのうち文科の奴に研究させてやろうと思うが、第一非常な名文で、思わず識《し》らず暗記させられる位だ」
「そうですかねえ。でも何だか、漢文口調のお話は、耳で聞いただけでは解らないようですね。その使ってある字を一々見て行かないと……」
「ウン。それじゃモット柔かく行くかナ」
「ドウゾ……助かります」
「ハハハハハハ。要するにこの玄宗皇帝というおやじ[#「おやじ」に傍点]は、楊貴妃と一緒にお祭りの行燈絵《あんどんえ》に描かれる位で、古今のデレリック大帝だ。四夷《しい》を平らげ、天下を治め、兵農を分ち、悪銭を禁じ……と来たまではよかったが、楊貴妃に鼻毛を読まれて何でもオーライで、兄貴の楊国忠《ようこくちゅう》を初め、その一味の碌《ろく》でなし連中をドンドン要職に引き上げた。つまり忠臣を逐《お》い出して奸臣《かんしん》を取り巻きにして、太平楽を歌った訳だね。あげくの果は驪山宮《りさんきゅう》という宏大もない宮殿の中に、金銀珠玉を鏤《ちりば》めた浴場《バス》を作って、玉のような温泉を引いて、貴妃ヤンと一緒に飛び込んで……お前とオーナラバ、ドコマデモオ…
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