座いましたが……ヘヘイ……」
「アハハハハハハ。そうかい。若林がよこしたのかい。フーム……イヤ御苦労御苦労。若林が自分で持って来たんかい」
「イエ……あの、学部長様が先刻《さきほど》からお電話で御座いまして、正木先生がまだおいでになるかとお尋ねで御座いましたから、私はビックリ致しまして、如何か存じませぬがチョット見て参りましょうと申しまして、お室《へや》の外まで参りますと、お二人様のお声が聞えました。それで学部長様に左様《さよう》申し上げましたれば、それならば後から物を持たしてやるから、お茶受けに差し上げてくれいとのことで……ヘイ」
「ウン。そうかそうか。たしかに受け取った。暇なら話しに来いと電話で云っとけ。イヤ御苦労御苦労……入口の鍵は掛けなくともいいぞ」
「ヘヘヘイ。先生方がおいでになりますことはチョットも存じませんで……きょうは私一人で御座いますもんじゃけん、まだお掃除も致しませんで……まことに不行届きで……申訳御座いませんで……ヘイヘイ……」
 小使の爺《じじい》は二人の前に、危《あぶな》っかしい手附きで茶を注《つ》いで出すと、何遍もお辞儀しいしい禿頭を光らせて出て行った。
 そのあとを見送って、扉の閉まるのを見届けた正木博士はイキナリ前屈《まえこご》みになってカステーラの一片を手掴みにすると、たった一口に頬張り込んで熱い茶をグイグイと呑んだ。そうして私にも喰えという風に眼くばせをした。
 しかし私は動かなかった。両手を膝の上に束ねて眼を瞠《みは》ったまま、正木博士のする事を見ていた。何かは知らず私には解らない別の意味で、互いに火花を散らしているらしい二人の博士の緊張ぶりに心を惹《ひ》かれながら……。
「アハハハハハ。何もそんなに気味わるがる事はないよ。これだから吾輩は悪党が好きなんだ。彼奴《きゃつ》め吾輩が昨夜から徹夜をして、何も喰っていない事を知っていやがるんだ。そこで吾輩の大好物の長崎のカステラを遣《よこ》して上杉謙信を気取りやがったんだ。病院の前で患者の見舞用に売っているシロモノだから何も心配する事はない。猫イラズも何も這入ってやしないよ。ハハハハハハハ」
 と云ううちに又二|片《きれ》三|片《きれ》口の中へ押し込んで茶を立て続けに飲んだ。
「ああ美味《うま》い。時にどうだい。これからもっと話を進めるんだが、その前に、今さっき読んだ呉一郎の前後二回の発作については、もう何も疑問の点は残っていないかい」
「あります」
 と私は鸚鵡《おうむ》返しに返事をした。ところがその返事は、私の思いもかけないハッキリした声で飛び出して室中に大きな反響を起したので、私は吾《わ》れながらハッとした。思わず座り直して下腹へ力を入れた。
 それはたった今眼の前で起った小さな波瀾……カステーラ事件のために、今まで行き詰まっていた私の気持ちがクルリと転換させられたのかも知れない。それともツイ今しがた失神しかけた時に飲まされたウイスキーが、この時やっと、本当の利き目を現わして来たのであったかも知れないが、いずれにしてもこの時に、私の返事が室《へや》の中で「ウワ――ン」と反響して消え失せたのを耳にすると急に勇気付けられたような気持ちになりつつ、熱い茶を一杯グッと飲み込んだ……が、その又お茶の美味《おい》しかった事……舌から食道へと煮え伝わって行く芳《かん》ばしい薫《かお》りを、クリ返しクリ返し味わって行くうちに、全身の関節がフンワリと弛《ゆる》んで、血の循環がズンズンとよくなって来るのがわかった。気持ちがユッタリとなって、頭がポッカリと軽くなって、吾れにもあらず濡れた唇を嘗《な》めまわしながら、正木博士の顔を見据えたのであった。ウイスキー臭い、熱い鼻息をフ――ッと吹きながら……。
「……たとい理屈がどうなっていようとも自分自身を呉一郎と思う事は絶対に出来ない……」
 と大きな声で宣言したいような気持ちになりつつ……。すると又、不思議にも、それにつれて今の今まで私の身の上に起って来た色々の出来事が、まるで赤の他人の事のように考えられて何ともいえず面白くなって来たのであった。今朝から見たり聞いたりした色々様々な事が、さながら百色眼鏡でも覗いているかのように、云い知れぬ興味と色彩とを帯びつつ、クルリクルリと眼の前で回転し初めると同時に、たった今まで、とてもオッカナイ、物騒な相手に見えていた二人の博士が、チットモ怖くなくなった許《ばか》りでなく、ステキに面白いオモチャ見たような存在に見えて来たのであった。
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……二人の博士はキット何かしら飛んでもない大きな感違いをしているのだ。
……事によるとこの事件の真相は、思いもかけぬ阿呆《あほ》らしい喜劇かも知れないぞ。
「……私と瓜二つの青年がいて、二人共奇想天外式の精神病に罹《かか》っ
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