瞬きをしいしい正木博士の妙な笑い顔を睨んだ。
「……そんなら……僕は……やはり呉一郎……」
「……そうだよ。理論上から云っても、実際上から見ても、君はどうしても呉一郎と名乗る青年でなくては、ならなくなるんだよ。不思議に思うのは無理もないが仕方がない。それで……その上に君が君自身の過去の記憶を、今見ているような夢の程度でない、ハッキリした現実にまでスッカリ回復して終《しま》ったとなれば、残念ながらこの実験は若林の大勝利で吾輩の敗北だ……かどうだかは、まだ結果を見ないと解らないがね。フフフフ」
「……………」
「……とにかく奇妙奇態だろう。変妙不可思議だろう。しかし、これを学理的に説明すると、何でもない事なんだよ。普通人でも頭が疲れている時とか、神経衰弱にかかっている時なぞには、よくこんな事があるんだよ。尤も程度は浅いがね……白昼《まひる》の往来を歩きながら、昨夜《ゆうべ》自分が女にチヤホヤされて、大持てに持てていた光景を眼の前に思い浮かめてニヤリニヤリと笑ったり、淋しい通りを辿《たど》ってゆくうちにこの間、電車に轢《ひ》かれ損《そこ》なった刹那の光景を幻視して、ハッと立ち止まったりする。女は又女で、古くなった嫁入道具の鏡の中に自分の花嫁姿を再現してポーッとなったり、女学生時代の自分の思い出の後影《うしろかげ》を逐《お》うて、ウッカリ用もない学校の門の前まで来たり……まだ色々とあるだろう。ちょうど夢の中で、自分の未来の姿である葬式の光景を描いているのと同じ心理で、自分の過去に対する客観的の記憶が生んだ虚像と、現在の主観的意識に映ずる実像とを、二枚重ねて覗いているのだ。しかも君のは、その夢を見ている部分の脳髄の昏睡が、普通の睡眠よりもズット程度が深いのだから、その解放治療場内の幻覚も、今、君が見ている通り、極めてハッキリとしている。熟睡している時の夢と同様に、現実とかわらない程の……否、それ以上の深い魅力をもって君に迫っているので、現実の意識との区別がなかなかつけにくいのだ」
「……………」
「……おまけに今も云う通り、君の頭の中で永い間昏睡状態に陥っている脳髄の機能の或る一部分が、ごく最近の事に関する記憶から初めて、少しずつ少しずつ甦《よみがえ》らせながら見せている夢だと思われるから、事によると、まだなかなか醒めないかも知れない。……醒める時はいずれ、窓の外の君と、現在そこにいる君とが、互いにこれは自分だなと気が付いて来た時に、ハッと驚くか、又は気絶するかして覚醒するだろうと思うが、しかし、その時にはこの室《へや》も、吾輩も、現在の君自身も一ペンにどこかへ消え去って、飛んでもない処で、飛んでもない姿の君自身を発見するかも知れない……実は今しがた君が失神しかけた時に、サテは最早《もう》覚醒するのかと思っていたわけだがね……ハハハハハハ」
「……………」
いつの間にか又眼を閉じていた私は、唯、正木博士の声ばかりを聞いていた。その言葉が含む二重三重の不可思議な意味に、あとからあとから昏迷させられつつ、一所懸命に両足を踏み締めて立っていた。今にも眼を開《あ》いたら、何もかも消えてなくなりはしないかとビクビクしながら、口の中でソロソロと舌を動かしていた。
その時であった。殆ど無意識に頭を押えていた私の右手が、やはり無意識のまま前額部の生え際の処まで撫で卸して来ると、突然、背骨に滲《し》み渡るほどの痛みを感じたのは……。
私は思わず「アッ」と声を立てた。閉じていた眼を一層強く閉じて、歯を喰い締めた。そうして、なおも念入りにそこを撫でまわしてみると、気のせいか少し膨《ふくら》んでいるようであるが、しかし腫《は》れ物ではないようである。たしかに何かと強くぶつかるか、又は打たれるかした痕跡《あと》である……今の今まで、こんな痛みは感じなかったが……そうして又、今朝《けさ》から今までの間に、そんなに非道《ひど》く頭を打ったおぼえは一つもないのだが……。
夢に夢見る心地とは、こんな場合をいうのであろう。私はその痛みの上にソッと手を当てて、シッカリと眼を閉じたまま頭を強く左右に振った。……絶壁から飛び降りるような気持ちで、思い切って眼をパッチリと大きく見開いて、自分の上下左右を念入りに見まわしてみたが……眼を閉じた前と何一つ変ったところはなかった。ただ最前から解放治療場の附近を舞いまわっているらしい、一匹の大きな鳶《とび》の投影が、又も場内の砂地の上を、スーッと横切っただけであった。
それを見た時に私は、どうしても一切が現実としか思えない事を自覚せずにはおられなかった。たといそれがドンナに不思議な、又は、恐ろしい精神科学的現象の重なり合《あい》であるにせよ、私自身にとっては決して、夢でもなければうつつ[#「うつつ」に傍点]でもない。たしかに実在
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