るだけであった。
「……しっかりしろ。確《しっか》りしろ。そうして今一度よく、あの青年の顔を見直すのだ。……サアサア……そんなに震えてはいけない。そんなに驚くんじゃない。ちっとも不思議な事はないんだ。……確りしろシッカリ……あの青年が君にソックリなのは当り前の事なんだ。学理上にも理屈上にも在り得る事なんだ。……気を落ちつけて気を、サアサア……」
 私はこの時、よく気絶して終《しま》わなかったものと思う。おおかたこの時までに、いろんな不思議な出来事に慣らされていたせいかも知れないが、それでも、どこか遠い処へ散り薄れかけている自分の魂を、一所懸命の思いで、すこしずつすこしずつ呼び返して、もとの硝子《ガラス》窓の前にシッカリと立たせる迄には何遍眼を閉じたり開《あ》いたりして、ハンカチで顔をコスリまわしたか知れない。しかも、それでも私には今一度窓の外を見直す勇気がどうしても出なかった。頭《こうべ》を低《た》れて床のリノリウムを凝視《みつめ》たまま、何回も何回もふるえた溜め息をして、舌一面に燃え上る強烈なウイスキーの芳香《におい》を吹き散らし吹き散らししていたのであった。
 正木博士は、その間に手に持っていたウイスキーの平べったい瓶を診察着のポケットに落し込んだ。そうして自分自身もやっと落ち付いたように咳払いをした。
「イヤ。驚くのも無理はない。あの青年は君と同年の、しかも同月同日の同時刻に、同じ女の腹から生れたのだからね」
「……エッ……」
 と叫んで私は正木博士の顔を睨んだ。同時に一切がわかりかけたような気がして、やっと窓の外の呉一郎をふり返るだけの勇気が出た。
「……ソ……それじゃ僕と、あの呉一郎とは双生児《ふたご》……」
「イイヤ違う……」
 と正木博士は厳格な態度で首を振った。
「双生児《ふたご》よりもモット密接な関係を持っているのだ。……無論他人の空似でもない」
「……ソ……そんな事が……」
 と云い終らぬうちに私の頭は又、何が何やら解らなくなってしまった。一種の皮肉な微笑を含みかけた正木博士の顔の、鼻眼鏡の下の、黒い瞳を凝視した。冷かしているのか、それとも真面目なのか……と疑いつつ……。
 正木博士の顔には見る見る私を憫《あわ》れむような微笑が浮かみあらわれた。幾度も幾度もうなずきつつ、葉巻の煙を吸い込んでは、又吐き出した。
「ウンウン。迷う筈だよ。……君は昔から物の本に載っている、有名な離魂病というのに罹《かか》っているのだからね……」
「……エ……離魂病……」
「……そうだよ。離魂病というのは、今一人別の自分があらわれて、自分と違った事をするので、昔から色んな書物に怪談として記録されているが、精神科学専門の吾輩に云わせると、学理上実際にあり得る事なんだ。しかし、そいつを現実に、眼の前に見ると、何ともいえない不思議な気持ちがするだろう」
 私は慌てて、今一度眼をコスリ直した。恐る恐る窓の外を見たが……青年はもとのまま、もとの位置に突立っている。今度はすこしばかり横顔を見せて……。
「……あれが僕……呉一郎と……僕と……どっちが呉一郎……」
「ハハハハハハハ、どうしても思い出さないと見えるね。まだ夢から醒め得ないのだね」
「エッ夢……僕が夢……」
 私は眼を真ン丸にして振り返った。得意そうに反《そ》り身になっている正木博士を見上げ見下した。
「そうだよ。君は今夢を見ているんだよ。夢の証拠には、吾輩の眼で見ると、あの解放治療場内には先刻《さっき》から人ッ子一人いないんだよ。ただ、枯れ葉をつけた桐の木が五六本立っているきりだ……解放治療場は、昨日の大事変勃発以来、厳重に閉鎖されているんだからね……」
「……………」
「……こうなんだ……いいかい。これは、すこし専門的な説明だがね。君の意識の中で、現在眼を醒まして活躍しているのは現実に対する感覚機能が大部分なんだ。すなわち現在の事実を見る、聞く、嗅ぐ、味《あじわ》う、感ずる。そいつを考える。記憶する……といったような作用だけで、過去に関する記憶を、ああだった、こうだったと呼び返す部分は、まだ夢を見得る程度にしか眼を醒していないのだ。……そこで君がこの窓から、あの場内の光景を覗くと、その一|刹那《せつな》に、昨日まであそこに、あんな風をして突立っていた君の記憶が、夢の程度にまで甦《よみがえ》って、今見ている通りのハッキリした幻影となって君の意識に浮き出している。そうしてそこに突立っている君自身の現在の意識と重なり合って見えているのだ。つまり、窓の外に立っている君は、君の記憶の中から夢となって現われて来た、君自身の過去の客観的映像で、硝子《ガラス》窓の中にいる君は現在の君の主観的意識なのだ。夢と現実とを一緒に見ているのだよ君は……今……」
 私はもう一度シッカリと眼をこすった。大きく
前へ 次へ
全235ページ中168ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング