クして来るのを我慢する事が出来なかった。そんな馬鹿な事が……と思えば思う程そう思えて仕様がなくなって来るのであった。私はそうした神秘的な……息苦しい気持を押え付けよう押え付けようと焦燥《あせ》りつつ、なおも、解放治療場内の光景に眼を注いだ。老人の畠打ちを見ている呉一郎のうしろ姿を、異様な胸の轟きのうちに凝視した……。
その時であった。私の耳の傍で突然に、低い、囁《ささ》やくような声がしたのは……。
「何を見ているのだね……君は……」
その声の調子は、今までの正木博士のソレとは丸で違っていたので、私は又もドキンとして振り返った。
見ると正木博士は、いつの間にか私のすぐ傍に来て、細い煙の立つ葉巻を手にして突立っていたが、その顔からは今までの微笑が、あとかたもなく消え失せていて、鼻眼鏡の下に真黒い瞳を据えたまま穴のあく程私の横顔を睨みつけているのであった。
……私は深い溜息を一つした。そうして出来るだけ気を落ち付けて返事をした。
「解放治療場を見ているのです」
「フ――ウ――ム」
と腹の底で唸《うな》った正木博士は、やはり瞬き一つせずに私の瞳を見据えた。
「フ――ム。……そうして何か見えているかね……解放治療場の中に……」
私は正木博士の尋ね方が何となく異様なので、静かにその瞳を見返した。
「ハイ……狂人が十人居るようです」
「……ナニ……狂人が十人……」
と慌てた声で云いさした正木博士は、何かしら余程驚いたらしく、今一度グッと私を睨み付けた。
その視線を横頬に感じながら、私は又も解放治療場内をふり返って、呉一郎のうしろ姿を凝視しはじめた。……今にもこっちを振り向いて、私と顔を合わせそうな気がして……そうしたら、何かしら大変な事が起りそうに思えて……身体《からだ》じゅうが自然《おのず》と固くなるように感じつつ……。
「ウーム……」
と正木博士は私の横で気味のわるい程ハッキリと唸った。
「あの中で狂人が遊んでいるのが、アリアリと見えるかね君には……」
私は無言のままうなずいた。いよいよ奇妙な質問の仕方だとは思いながら、別段気にも止めないで……。
「フ――ム。そうして人数はやっぱり十人いるというのかね」
私は又、うなずきつつ振り返った。
「ハイ。キッチリ十人おります」
「……ウ――ム……」
と正木博士は唸った。真黒い眼の球《たま》を奥の方へ凹《へこ》ませながら……。
「フーム。こいつは妙だ。……トテモ面白い現象だぞこれは……」
と独言《ひとりごと》のように云いつつ、徐《おもむ》ろに私の顔から視線を外《そ》らして窓の外を見た。そうして心持ち青白い顔になって、ジッと考え込んでいるようであった。がやがて以前の通りに元気のいい顔色に返ると、ニッコリと白い歯を見せつつ私を振り返った。窓の外を指しつつ快濶《かいかつ》な口調で問うた。
「それじゃモウ一つ尋ねるが、あの畠の一角に立って、老人の鍬の動きを見ている青年がいるだろう」
「ハイ。おります」
「……ウム……いる……ところでその青年は今、ドッチを向いて突立っているかね」
私は正木博士の質問が、いよいよ出でてイヨイヨ変テコになって来るので、妙な気持ちになりながら答えた。
「こちらに背中を向けて突立っております。ですから顔はわかりません」
「ウン……多分そうだろうと思った。……しかし見ていたまえ。今にこちらを向くかも知れないから……。その時にあの青年が、どんな顔をしているかを君は……」
正木博士がこう云いさした時、私の全身は何故《なにゆえ》か知らずビクリとして強直した。心臓の鼓動と呼吸とが、同時に止まったように思った。
その時に正木博士に指《ゆびざ》されていた青年……呉一郎のうしろ姿は、あたかも、何等かの暗示を受けたかのように、フッとこちらを振りかえった。私達の覗いている硝子《ガラス》窓越しに、私とピッタリ視線を合わした……と……その顔に、今まで含まれていたらしい微笑がスーと消え失せて……今朝《けさ》程、あの湯殿の鏡の中で見た私の顔と寸分違わない、ビックリしたような表情にかわった。……顔の丸い、眼の大きい、腮《あご》の薄い……と思う間もなく、又も、ニコニコと微笑を含みながら、しずかに老人の畠打ちの方に向き直ってしまった……ように思う……。
……私はいつの間にか両手で顔を蔽《おお》うていた。
「……呉一郎は……私だ……私は……」
と叫びつつヨロヨロとうしろに、よろめいた……ように思う……。
それを正木博士が抱き止めてくれた。そうして噎《む》せかえるほど芳烈な、火のように舌を刺す液体をドクドクと口の中へ注ぎ込んでくれた……ように思うが、何が何であったかハッキリとは記憶しない。唯、その時に正木博士が、私の耳の傍で怒鳴《どな》っていた言葉だけが、切れ切れに記憶に残ってい
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