の姿をこの眼で見、実在の音をこの耳で聴いている事を確信しない訳に行かなかった。……その確信を爪の垢ほども疑う気になれなかった。私は、今一人の自分自身としか思えないほど私によく肖通《にかよ》っている窓の外の青年、呉一郎の立っている姿を、何等の恐怖も感じないままに、今一度冷然と睨み付ける事が出来た。それから徐《おもむ》ろに正木博士をふり返ると、博士は忽《たちま》ち眼を細くして、義歯《いれば》を奥の方までアングリと露《あら》わした。
「ハッハッハッハッ。これだけの暗示を与えても解らないかい。君自身を呉一郎とは思えないかい」
 私は無言のまま、キッパリと首肯《うなず》いた。
「ハッハッハッ。イヤ豪《えら》い豪い。実は今云ったのは……みんな嘘だよ……」
「エッ……嘘……」
 と云いさして私は思わず頭を押えていた手を離した。その手を二本ともダラリとブラ下げたまま……口をポカンと開いたまま正木博士と向き合って、大きな眼を剥《む》き出していたように思う、恐らく「呆《あっ》」という文字をそのままの恰好で……。
 その私の眼の前で正木博士は、さも堪《たま》らなさそうに腹を抱えた。小さな身体《からだ》から、あらん限りの大きな声をゆすり出して笑い痴《こ》け初めた。葉巻の煙に噎《む》せて、ネクタイを引き弛《ゆる》めて、チョッキの釦《ぼたん》を外して、鼻眼鏡をかけ直して、その一声|毎《ごと》に、室中《へやじゅう》の空気が消えたり現われたりするかと思う程徹底的に仰ぎつ伏しつ笑い続けた。
「ワッハッハッハッ。トテモ痛快だ。君は徹底的に正直だから面白いよ。アッハッハッハッハッハッ。ああ可笑《おか》し……ああたまらない……憤《おこ》ってはいけないよ君……今まで云ったのは嘘にも何にも、真赤な真赤な金箔《きんぱく》付のヨタなんだよ……アハ……アハ……併し決して悪気で云ったんじゃないんだよ。本当はあの青年……呉一郎と君とが、瓜二つに肖通《にかよ》っているのを利用してチョット君の頭を試験して見たんだよ」
「……ボ……僕の頭を試験……」
「そうだよ。実を云うと吾輩はこれから、あの呉一郎の心理遺伝のドン詰まりの正体を君に話して聞かせようと思っているんだが、それにはもっともっと解らない事がブッ続けに出て来るんだからね。よほど頭をシッカリしていないと飛んでもない感違いに陥る虞《おそれ》があるんだ。現に今でも君の方から先にあの青年を『自分と双生児《ふたご》に違いない』なぞと信じて来られると、吾輩の話の筋道がスッカリこんがらがって滅茶《めちゃ》になって終《しま》うから一寸《ちょっと》予防注射をこころみた訳さ。アハハハハ」
 私は本当に夢から醒めたように深呼吸をした。今更に正木博士の弁力に身ぶるいさせられつつ、今一度、頭の痛い処に手を遣《や》った。
「……しかし、僕のここん処《とこ》が、今急に……疼《うず》き出したのは……」
 と云いさして私は口を噤《つぐ》んだ。又笑われはしまいかと思って、恐る恐る眼をパチつかせた。
 しかし正木博士は笑わなかった。恰《あたか》もそうした痛い処が私の頭の上に在るのを、ズット以前《まえ》からチャンと知っていたかのように、事もなげな口調で、
「ウン……その痛みかい」
 と云ってのけたので、笑われるよりも一層気味がわるくなった。
「それはね……それは今急に痛み出したのではない。今朝《けさ》、君が眼を醒ました前から在ったのを、今まで気が付かずにいたんだよ」
「……でも……でも……」
 と私はまだふるえている指を一本ずつ正木博士の前で折り屈《かが》めた。
「……今朝から理髪師《とこや》が一ペン……と、看護婦が一度と……その前に自分で何遍も何遍も……すくなくとも十遍以上ここん処《とこ》を掻きまわしているんですけど……ちっとも痛くはなかったんですが……」
「何遍引っ掻きまわしていたって、おんなじ事だよ。自分が呉一郎と全然無関係な、赤の他人だと思っている間は、その痛みを感じないが、一度、呉一郎の姿と、自分の姿が生き写しだという事がわかると、その痛みを突然に思い出す。……そこに精神科学の不可思議な合理作用が現われて来る……宇宙万有は悉《ことごと》く『精神』を対象とする精神科学的の存在に過ぎないので、所謂唯物科学では、絶対、永久に説明出来ない現象が存在する事を如実に証拠立て得る事になるという、トテモ八釜《やかま》しい瘤《こぶ》なんだよ、それは……すなわち君の頭の痛みは、あの呉一郎の心理遺伝の終極の発作と密接な関係があるのだ。というのは呉一郎は昨夜《ゆうべ》、その心理遺伝の終極点まで発揮しつくして、壁に頭を打ち付けて自殺を企てたのだからね。その痛みが現在、君の頭に残っているのだ」
「……エッ……エッ……それじゃ……僕は……やはり呉一郎……」
「ママ……まあソンナに慌てるな
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