インキの匂いがしているだろう。ハハハハハ。どんなもんだい。遺言書というものは、是非とも本人が死んだ後から現われて来なければならぬものと、きまってやしないぜ。吾輩がまだ生きていたって、何も不思議はなかろうじゃないか。アッハッハッハッハッ」
「……………」
私は開《あ》いた口が閉《ふさ》がらなかった。正木、若林の両博士が、何のためにコンナ奇妙なイタズラをするのかと思い迷った。悪戯《いたずら》にしても余りに奇妙な、不合理な事ばかり……一体|今朝《けさ》から見た色んな出来事や、様々の書類の内容は、みんな真剣な事実なのか知らん。それとも二人の博士が馴れ合いで、私を戯弄《からか》うために仕組んだ、芝居に過ぎないのじゃないかしらん……と……そんな風に考えまわして来るうちに、今の今まで私の頭の中に一パイになっていた感激や、驚きや、好奇心なぞの山積が、同時にユラユラグラグラと崩れ初めて、自分の身体《からだ》と一緒にスウーとどこかへ消え失せて行くように感じたのであった。
それをジッと踏みこたえて、大|卓子《テーブル》の端に両手をシッカリと突いた私は、鼻の先にニヤニヤしている正木博士の顔を、夢のようにボンヤリと眺めていた。
「ウッフッフッフッフッ」
と正木博士は噴飯《ふきだ》した。その拍子に嚥《の》み込みかけていた葉巻の煙に咽《む》せて、苦しさと可笑《おか》しさをゴッチャにした表情をしながら、慌てて鼻眼鏡を押え付けた。
「アッハッハッハッハッ……ゴホンゴホン……妙な顔をしているじゃないか……ウフフフフフフ是非とも吾輩が死んでいないと具合がわるいと……ゲッヘンゲッヘン……云うのかね。ゲヘゲヘ弱ったなドウモ……こうなんだよ。いいかい。君は今朝早く……多分午前一時頃だったと思うが、あの七号室のまん中に大の字|形《なり》に寝ていた。そうして眼を醒ますと、イキナリ自分の名前を忘れているのに驚いて、タッタ一人で騒ぎ廻ったろう」
「……エッ……どうしてそれを御存じ……」
「御存じにも何も大きな声を出して怒鳴《どな》り散らしたじゃないか。他の奴はみんな寝ていたが、この室《へや》でこの遺言書を書いていた吾輩が聞き付けて行ってみると、君はあの七号室で、一所懸命に自分の名前を探しまわっている様子だ。……扨《さて》はヤット今までの夢遊状態から醒めかけているんだナ……と思って、なおも大急ぎで遺言書を書き上げるべく、二階へ引返して来た訳だが、そのうちに夜が明けてから、やっと居睡《いねむ》りから眼を醒ました吾輩が、少々気抜けの体《てい》でボンヤリしていると、間もなく若林が例の新式サイレンの自動車で馳け付けて来る様子だ。……こいつは面黒《おもくろ》い。君が夢中遊行の状態から醒めかけている事を、早くも誰かが発見して若林に報告したと見える。ナカナカ機敏なものだが、扨《さて》馳け付けて来てドウするつもりか……となおも物蔭から様子を見ていると、若林は君の頭を散髪さして湯に入れて、堂々たる大学生の姿に仕立て上げてから、君の室《へや》と隣り合わせの六号室に入院している一人の美少女に引き合わせたろう。……しかも、それは君の許嫁《いいなずけ》だというのでスッカリ君を面喰《めんく》らわせたろう」
「エッ……それじゃあの娘は、やっぱり精神病患者……」
「そうさ。しかも学界の珍とするに足る精神異状さ。大事の大事の結婚式の前の晩にカンジンカナメの花婿さんから、思いもかけぬ『変態性慾の心理遺伝』なぞいう途方《とほう》トテツもない夢遊発作を見せられたために、吾れ知らずその夢遊発作の暗示作用に引っかけられて、その花婿さんと同じ系統の心理遺伝の発作を起して、とりあえず仮死の状態に陥ってしまった。ところが、若林の怪手腕によって、そこから息を吹き返して来ると、今度は千年も前に死んだ玄宗皇帝や楊貴妃を慕ったり、居もしない姉さんに済まないと云い出したり、又は赤ん坊を抱く真似をして、お前は日本人になるんだよと云ったりしていた……尤《もっと》も今では、よほど正気付いてはいるがね……」
「……ソ……それじゃ……ア……あの娘の……名前は……何というので……」
「ナニ。名前……聞かなくたってわかっているだろう。音に聞えた姪の浜小町さ……呉モヨ子さ……」
「……エッ……ソ……それじゃ……僕は呉一郎……」
私が、こう云いかけた時、正木博士はその大きなへの字口をピッタリと噤《つぐ》んだ。葉巻の煙に顔をしかめ[#「しかめ」に傍点]たまま、黒い瞳の焦点をピッタリと私の顔に静止さした。
私は全身の血が見る見る心臓へ集中して、消え込んで行くように感じた。額から生汗がポタポタと滴《したた》り落ちて、唇がわなわなとふるえ出して、又もフラフラとなりかけたように思った。大|卓子《テーブル》に両手を支えて立っている自分の身体《からだ》が空気と
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