一緒に散り薄れて、あとにはただ眼の球《たま》だけが消え残ってシッカリと正木博士を凝視しているような……そんな気持ちの中に私の魂は、無限の時間と空間の中を、死ぬほどの高速度で駈けめぐっていた……呉一郎としての自分の過去を、もしや思い出しはしまいかと恐れ戦きつつ……自分の肺臓と心臓が、どこかわからぬ遠い処から、大浪を打たせて責めかかって来る音に耳を澄ましつつ……ワナワナブルブルと戦きふるえていた。
 けれども……その心臓と肺臓がイクラ騒ぎ立てて、喘《あえ》ぎまわっても、私の魂はどうしても、呉一郎としての過去の思い出を喚び起し得なかった。そのあいだに何遍頭の中で繰り返したか知れない、「呉一郎」という名前に対して「これが自分の名前だ」というような懐《なつ》かし味や親しみが微塵《みじん》ほども感ぜられなかった。私の過去の記憶はイクラ考え直しても、今朝《けさ》暗いうちに聞いた「ブーン」という音のところまで溯《さかのぼ》って来ると、ソレッキリ行き詰まりになって終《しま》うのであった。……私は他人が何と思おうとも……どんな証拠を見せつけられようとも、自分自身を呉一郎と認める事が出来ないのであった。
 ……私はホーッと深いため息を一つした。それと一緒に全身の意識が次第次第に私のまわりに立ち帰って来た。心臓と肺臓の波動が静まり初めた。やがてドタリと椅子の上に腰をかけるトタンに、両方の腋の下からタラタラと冷汗が滴《した》たった。
 すると、それと同時に私の鼻の先で、澄まし返った顔をしていた正木博士はプーッと一服、紫の煙を吹き出した。
「どうだい。自分の過去を思い出したかい」
 私は無言のまま頭を左右に振った。そうしてポケットから新しいハンカチを引き出して顔の汗を拭いているうちに、よほど気が落ち付いて来たように思った。……しかし、それにしても訳のわからない事があんまり多過ぎるようで、身動きするのさえ恐ろしくなりつつ、椅子の中へヒッソリと居《い》ずくまった。……と……間もなく正木博士が大きな咳払いを一つしたので私は又ビックリして飛び上りそうになった。
「……エヘン……思い出さなければモウ一度云って聞かせるが、いいかい……気を落ち付けてよく聞きたまえよ。君は現在、一つのトリックに引っかけられているのだよ。つまり……吾輩の同輩若林鏡太郎博士は、君自身を呉一郎と認めさせて、充分に間違いのない事を確信させた上で、吾輩に面会させようとしているのだ。そうして吾輩をこの世に二人といない、極悪無道の人非人《にんぴにん》として君に指摘させようとしているのだよ」
「エッ。あなたを……」
「ウン。まあ聞け。君がよく気を落ちつけて、今朝《けさ》から起った出来事を今一度ハッキリと頭の中で考え合わせて来さえすれば、万事が何の苦もなく解決するのだ。……いいかい」
 正木博士は改めて真面目に帰ったように、落ち付いた調子で咳一咳《がいいちがい》した。椅子の上に反《そ》り返って濃い煙をあとからあとから吹き上げると、悠然として大暖炉の横にかかったカレンダーを振り返った。
「いいかい。改めて云っておくが、今日は大正十五年の十月二十日だよ。いいかい。もう一度、繰り返して云っておく。きょうは大正十五年の十月二十日……この遺言書に書いてある通り、呉一郎が一個月振でこの解放治療場にヒョックリと出て来て、鉢巻儀作爺の畠打ちを見物していた、十月十九日のその翌日なんだよ。……その証拠にあのカレンダーを見たまえ。……OCTOBER……19……すなわち昨日《きのう》の日付になっている。これは吾輩が昨日からあまり忙がしかったので、あの一枚を破るのを忘れていたからで、同時に吾輩が昨日から徹夜してここに居た事を証明しているのだ……いいかい。解ったね。……それから、序《ついで》に吾輩の頭の上の電気時計を見たまえ。今は十時十三分だろう。ウン。吾輩のとピッタリ合っている。つまり吾輩が今朝になって、その遺言書を書きさしたまま、居睡《いねむ》りを初めてから、まだ五時間しか経過していない理窟になるんだ。……こうした事実と、その遺言書のおしまいの処のインキがまだ青々としている事実とを綜合したら、吾輩がこうしてケロリとしていたって別に不思議がる事はなかろうじゃないか。いいかい、……この点をまずシッカリ頭に入れとかないと、あとで又大変な錯覚に陥るかも知れない虞《おそれ》があるんだよ」
「……しかし……若林先生が先刻《さっき》……」
「いけない……」
 と一際《ひときわ》大きな声で云ううちに、正木博士の右手の拳骨《げんこつ》が高く揚がると、私の頭の中の迷いを一気にたたき除《の》けるように空間で躍った。……活溌な……万事を打ち消すような元気を横溢《おういつ》さして……。
「いけない。吾輩の云う事を信じ給え。若林の云う事を本当にしてはいけ
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