て……おまけに肥って」
「……ハイ……」
と呉一郎も相変らずニコニコしながら、又も鍬の上り下りを見守り初める。
「何をしているんだね。ここで……」
と正木博士はその顔を覗き込むようにして尋ねた。……と、呉一郎は鍬に眼を注いだまま静かに答えた。
「……あの人の畠打《はたう》ちを見ているのです」
「フーム。だいぶ意識がハッキリして来たな」
と正木博士は独言《ひとりごと》のように云いつつ、その横顔を見上げ見下していたが、やがて心持ち語勢を強めて云った。
「……そうじゃあるまい。あの鍬が借りたいのだろう」
この言葉が終らぬうちに一郎の頬がサッと白くなった。眼を丸くして正木博士の顔を見たが、間もなく又、鍬の方を振り返りつつ独言《ひとりごと》のようにつぶやいた。
「……そうです……あれは僕の鍬なのです」
「ウン。それは解っているよ」
と正木博士はうなずいて見せた。
「……あの鍬は君のものなんだ。しかし折角《せっかく》ああやって熱心に稼いでいるんだから、もうすこし待っていてくれないか。そのうちに十二時のドンが鳴れば、あの爺さんはキットあの鍬を放り出して、飯を喰いに行くにきまっているんだから……そうして午後はもう日が暮れるまで決して出て来ないのだから」
「キットですか」
こう云って正木博士をふり返った呉一郎の眼は何となく不安そうに光った。正木博士は安心せよという風に深くうなずいて見せた。
「キットだよ。……そのうちに今一挺、新しいのを買ってやるよ」
呉一郎は、それでも何かしら不安そうに鍬の上げ下げを凝視していたが、間もなく独言《ひとりごと》のように口籠《くちごも》りつつつぶやいた。
「僕は今欲しいんです……」
「フーム。何故だね……それは……」
しかし呉一郎は答えなかった。ピッタリと口を閉じて、又も、鍬の上下を見守り初めた。
正木博士はその横顔を、緊張した表情でジッと睨みつけた。その表情の中から、何かを探り出そうと思っているらしい。
大きな鳶《とび》の影が、二人の前の砂地をスーッと辷《すべ》って行く。
――――――――――――――――――――
エート……ここまで御覧に入れましたところによって、呉一郎の心理遺伝のソモソモが青琅※[#「王+干」、第3水準1−87−83]《せいろうかん》の玉、水晶の管、珊瑚《さんご》の櫛なぞいうものを身に着ける、古代の高貴な婦人と関係があるらしい事と、その婦人をモデルと致しました或る絵巻物を完成さすべく、呉一郎が斯様《かよう》に熱心に、女の死骸を求めているらしい事が、やっと判明して来たようであります。
しかし、その死骸が土中に埋められたのはいつかという正木博士の質問に対して呉一郎が茫然、答うるところを知らず、そのまま自分の室に帰って考え込んでしまったのは何故か……。
それが又、一箇月後のきょう……大正十五年の十月十九日に到って、フラリとこの解放治療場に出て参りまして、老人の鍬が空《あ》くのを一心に待ち構えているのは何故か……。
……こういう間《ま》にもこの狂人解放治療場の危機は、現在如何なるところから、如何にして迫りつつあるのか……。
この疑問を明らかにし得るものは、只今のところ、この事件を調査した若林博士と、その相談相手となっている私だけ……否、スクリーンの中の正木博士……ではない……イヤそうでもない……エエ面倒臭い、吾輩にしちまえ……序《ついで》に活動写真も止めちまえ。もう一つ序に九大精神病科の教授室の深夜に、たった一人でこの遺言書を書いている、正木キチガイ博士に帰っちまえだ。
少々ヨタが強過ぎるかも知れないが、どうせ死ぬ前の暇潰《ひまつぶ》しに書く遺言書だ。ウイスキーがいくら利いたって構うこたあない。あとは野となれ山となれだ……ここいらで又、一服さしてもらうかね。
……ああ愉快だ。こうやって自殺の前夜に、宇宙万有をオヒャラかした気持ちで遺言書を書いて行く。書きくたびれるとスリッパのまま、廻転椅子の上に座り込んで、膝を抱えながらプカリプカリと、ウルトラマリンや、ガムボージ色の煙を吐き出す。……そうするとその煙が、朝雲、夕雲の棚引《たなび》くように、ユラリユラリと高く高く天井を眼がけて渦巻き昇って、やがて一定の高さまで来ると、水面に浮く油のようにユルリユルリと散り拡がって、霊あるものの如く結ぼれつ解けつ、悲しそうに、又は嬉しそうに、とりどり様々の非幾何学的な曲線を描きあらわしつつ薄れ薄れて消えて行く。それを大きな廻転椅子の中からボンヤリと見上げている、小さな骸骨みたような吾輩の姿は、さながらにアラビアンナイトに出て来る魔法使いをそのままだろう…………ああ睡《ねむ》い。ウイスキーが利いたそうな。ムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャ……窓の外は星だらけだ
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