ゝ、雪影うつらふ氷の刃《やいば》を、抜き連《つ》れ抜き連れ競《きそ》ひかゝる。虹汀さらば詮方《せんかた》なしと、竹の杖を左手《ゆんで》に取り、空拳を舞はして真先《まっさき》かけし一人の刃《やいば》を奪ひ、続いてかゝる白刃を払ひ落し、群がり落つる毬棒《いがぼう》、刺叉《さすまた》を戞矢《かっし》/\と斬落して、道幅一杯に立働らきつゝ人馬の傍《かたわら》に寄せ付けず、其のほか峯打ち当て身の数々に、或は気絶し又は悶絶して、雪中を転び、海中に陥るなど早くも十数人に及びける。
思ひもかけぬ旅僧の手練《てなみ》に、さしもの大勢あしらひ兼ね、白《しら》み渡つて見えたりければ、雲井喜三郎今は得堪《えた》へず、小癪《こしゃく》なる坊主の腕立て哉《かな》。いでや新身《あらみ》の切れ味見せて、逆縁の引導《いんどう》渡し呉《く》れむと陣太刀《じんだち》長《なが》やかに抜き放ち、青眼に構へて足法《そくほう》乱さず、切尖《きっさき》するどく詰め寄り来る。虹汀何とか思ひけむ。奪ひ持ちたる刀を投げ棄て、竹杖|軽《かろ》げに右手《めて》に取り直し、血に渇《かっ》したる喜三郎の兇刃に接して一糸一髪《いっしいっぱつ》を緩《ゆる》めず放たず、冷々《れいれい》水の如く機先を制し去り、切々《せつせつ》氷霜《ひょうそう》の如く機後《きご》を圧し来るに、音に聞えし喜三郎の業物《わざもの》も、大盤石《だいばんじゃく》に挟まれたるが如く、ひたすらに気息を張つて唖唖《ああ》切歯《せっし》するのみ。虹汀|之《これ》を見て莞爾《にっこり》と打ち笑みつ。如何に喜三郎ぬし。早や悟《さと》り給ひしか。弥陀《みだ》の利剣とは此の竹杖《ちくじょう》の心ぞ。不動の繋縛《けばく》とは此の親切の呼吸ぞや。たとひ百練千練の精妙なりとも、虚実|生死《しょうじ》の境を出でざる剣《つるぎ》は悟道一片の竹杖にも劣る。眼前の不可思議|此《かく》の如し、疑はしくは其刀を棄て、悪心を飜《ひるがえ》して仏道に入り、念々に疑はず、刻々に迷はざる濶達《かったつ》自在の境界に入り給へ。然らずは一殺多生《いっせつたしょう》の理に任せ、御身《おんみ》を斬つて両段となし、唐津藩当面の不祥を除かむ。されば今こそは生死《しょうじ》断末魔の境ぞ。地獄天上の分るゝ刹那《せつな》ぞ。如何に/\と詰め寄れば、さしもに剛気無敵の喜三郎も、顔色|青褪《あおざ》め眼《まなこ》血走り、白汗《はっかん》を流して喘《あえ》ぐばかりなりしが、流石《さすが》に積年の業力《ごうりき》尽きずやありけむ。又は一点の機微に転身をやしたりけむ、忽然《こつぜん》衝天《しょうてん》の勇を奮《ふる》ひ起して大刀を上段|真向《まっこう》に振り冠《かむ》り、精鋭|一呵《いっか》、電光の如く斬り込み来るを飜《ひら》りと避けつゝ礑《はた》と打つ。竹杖の冴《さ》え過《あや》またず。喜三郎の眉間《みけん》に当れば、眼《まなこ》くるめき飛び退《の》き様、横に払ひし虚につけ入りたる虹汀、喜三郎の腰に帯びたる小刀の柄《つか》に手をかくるとひとしく、さらば望みに任せするぞと、云ひも終らず一間余り走り退《の》くよと見えけるが、再び大刀を振り上げし喜三郎は、そのまま虚空にのけぞりて、仏だふれに仰《あお》のきたふれつ。大袈裟《おおげさ》がけに斬り放されし右の肩より湧き出づる血に、雪を染めつゝ息絶えける。
此の勢ひに怖れをなしけむ。残りし者は遠く逃れて、逐《お》はむとする者も見えざりければ、虹汀今は心安しと、奪ひし小刀を亡骸《なきがら》に返し、掌《たなごころ》を合はせ珠数《じゅず》を揉《も》みつゝ、念仏両三遍|唱《とな》へけるが、やがて黒衣の雪を打ち払ひて、いざやとばかり仏像を負《お》ひ取り、人心《ひとごころ》も無き六美女をいたわり慰めつ、笠を傾け、人馬を急がして行く程もなく筑前領に入り、深江《ふかえ》といふに一泊し、翌暁まだ熄《や》まぬ雪を履《ふ》んで東する事又五里、此の姪の浜に来りて足をとゞめぬ。
虹汀此の所の形相《けいそう》を見て思ふやう。此地、北に愛宕《あたご》の霊山半空に聳《そび》えつゝ、南方|背振《せぶり》、雷山《らいさん》、浮岳《うきだけ》の諸名山と雲烟《うんえん》を連ねたり。万頃《ばんけい》の豊田|眼路《めじ》はるかにして児孫万代を養ふに足る可く、室見川《むろみがわ》の清流又杯を泛《うか》ぶるに堪《た》へたり。衵浜《あこめはま》、小戸《おど》の旧蹟、芥屋《けや》、生《いく》の松原の名勝を按配して、しかも黒田五十五万石の城下に遠からず。正《まさ》に山海地形の粋《すい》を集めたるものと。すなはち従ひ来れる馬士《まご》を養ひて家人となし、田野を求めて家屋|倉廩《そうりん》を建て、故郷|京師《けいし》に音信《いんしん》を開きて万代の謀《はかりごと》をなす傍《かたわら》、一地を相して雷山
前へ
次へ
全235ページ中147ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング