ん》にして、件《くだん》の絵巻物を傍《かたわら》の火炉中に投じ、一片の煙と化し了《おわ》んぬ。
 かくて虹汀は心静かに座定を出で、家人を招き集めて演《の》べけるやうは「吾《われ》、法力によつて、呉家の悪因縁を断つ事を得たり。すなはち此灰を仏像に納めて三界の万霊と共に供養《くよう》し、自身は俗体となつて、此家に婿となり、勝果《しょうか》を万代に胎《のこ》さむと欲す。家人の思はるゝ処あらば差し置かず承らまほし」とありけるが、一人も所存を申し出づるもの無く、ひたぶるに国老雲井家の咎《とが》めを懼《おそ》るゝ体《てい》也。虹汀其心を察し、その日の裡《うち》に厚く労《ねぎら》ひて家人に暇《いとま》を与へ、家屋|倉廩《そうりん》を封じて「公儀に返還す。呉坪太《くれつぼた》」と大書したる木札を打ち、唯、金銀、書画の類のみを四駄に負はせて高荷《たかに》に作り、屈竟《くっきょう》の壮夫《わかもの》に口を取らせ、其身は弥勒の仏像を負ひて呉家の系図を懐《ふところ》にし、六美女の手を引きて、あくる日の昧爽《まだき》に浜崎を立ち出で、東《あずま》の方を志す。折ふし延宝二年|臘月《ろうげつ》朔日《ついたち》の雪、繽紛《ひんぷん》として六美女の名に因《ちな》むが如く、長汀曲浦《ちょうていきょくほ》五里に亘る行路の絶勝は、須臾《たちまち》にして長聯《ちょうれん》の銀屏《ぎんぺい》と化して、虹汀が彩管《さいかん》に擬《まが》ふかと疑はる。
 かくて稍《やや》一里を出でし頃ほひ、東天|漸《ようや》く紅《くれない》ならむとする折しもあれ、後《うしろ》の方に当つて人音《ひとおと》夥《おびただ》しく近づき来るものあり。虹汀、何事ぞと振り返るに、その数二三十と思しき捕吏《とりて》の面々、手に/\獲物を携《たずさ》へたる中に、彼《か》の海中に陥りし半面鬼相の雲井喜三郎、如何にしてか蘇《よみがえ》りけむ、白鉢巻、小具足、陣羽織、野袴《のばかま》の扮装《いでたち》物々しく、長刀を横たへて目前に追ひ迫り来り、大音|揚《あ》げて罵《ののし》るやう、やをれ悪僧|其処《そこ》動くな。此間は汝《なんじ》を大公儀の隠目付《かくしめつけ》と思ひあやまり、一旦の遠慮に惜しき刃《やいば》を収めしが、其後《そののち》藩命を蒙《こうむ》りて、あまねく汝の素性行跡を探りしに、画工と佯《いつわ》つて当城下の地形《ちぎょう》を窺《うかが》ふのみならず、法体《ほったい》と装ひて諸国を渡り、有徳《うとく》の家を騙《たばか》つて金品を掠《かす》め、児女を誘《いざな》ひて行衛を晦《くら》ます、不敵無頼の白徒《しれもの》なる事、天地に照して明らかなり、汝空を翹《かけ》り土に潜《ひそ》むとも今は遁《のが》るゝに道あるまじ、いでや者輩《ものども》、当藩の物を奪ひ去る無法|狼藉《ろうぜき》の坪太はそれよ。女人を誘拐《かどわか》す卑怯未練の賊僧はそれよ。容赦なく踏み込んで召捕れやつと大喝すれば、声を合せて配下の同心、雪を蹴立てゝ勢《きお》ひかゝる。一方は峨々《がが》たる絶壁半天に懸《かか》れり。一面は断崖海に臨みて足もたまらず。背後には繊弱《かよわ》き女人と人馬を控へたり。遁《のが》れつべうもこそあらじと見えつるが、虹汀少しも騒ぐ気色《けしき》なく、負《お》ひ奉りし仏像を馬士《まご》に渡し、網代笠《あじろがさ》の雪を払ひて六美女に持たせつ、手に慣れし竹杖を突き、衣紋《えもん》を繕《つくろ》ひ珠数《じゅず》を爪繰《つまぐ》りつゝ、しづ/\と引返し進み出でければ、案に違《たが》ひし捕手の面々、気先を呑まれてぞ見えたりける。
 その時虹汀、大勢に打ち向ひて慇懃《いんぎん》に一礼を施しつゝ、咳一咳《がいいちがい》して陳《の》べけるやう、這《こ》は御遠路のところ、まことに御苦労千万也。かゝる不届《ふとどき》の狼藉者を、かほどの大勢にて御見送り賜はる、貴藩の御政道の明らかなる事、まことに感服に堪《た》へたりと云ふ可し。さは云へ折角の御芳志ならば、今|些《すこ》しばかり彼方《かなた》の筑前領まで御見送り賜はりてむや。さすれば御役目|滞《とどこ》り無く相済みて、無益《むやく》の殺生《せっしょう》も御座なかる可く、御藩の恥辱とも相成るまじ。此儀如何や。御返答承り度《た》しと言葉|爽《さわ》やかに笑《えみ》を含めば、一同|呆《あき》るゝ事|稍久《ややしばし》焉。忽《たちま》ちにして雲井喜三郎は満面に朱を注ぎつ。おのれ口の横さまに裂けたる雑言哉《ぞうごんかな》。此間こそ酔ひ痴《し》れて不覚をも取りたれ、今日は吾が刀の錆《さび》までもあるまじ。かゝれや物共、相手は一人ぞ。女のほかは斬り棄つるとも苦しからず。かゝれ/\と刀柄《つか》をたゝけば、応と意気込む覚えの面々、人甲斐《ひとがい》も無き旅僧《たびそう》一人。何程の事やあらむと侮《あなど》りつ
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