め/\喜ばしき御沙汰には候はず、妾の夫にて御屋敷奉公致せる者より卒度《そと》洩《も》らし参りしやうには、彼《か》の喜三郎と云へる御仁は、雲井様の妾腹の御子にて剣術の達者、藩内随一の聞え高き御方なるが、若き時より御行跡穏やかならず、長崎|御番《ごばん》の御伴《おとも》して彼《か》の地に行かれしより丸山の遊び女《め》に浮かれ、遂《つい》にはよからぬ輩《ともがら》と交《まじわ》りを結びて彼処此処《かしこここ》の道場を破りまはり、茶屋小屋の押し借りするなぞ、狼籍《ろうぜき》の限りを尽して身の置き処無きまゝに、此程|窃《ひそ》かに御帰国ありし趣に候。さりながら御家中の誰あつて、嫁婿の御望みを承るものなきのみならず、蛇、毛虫の如く忌《い》み恐れ居り候ひし処、当家の事を聞き及ばれ、かく御沙汰ありしものに侍り。のみならず、其のまことの下心は、御事済《おんことず》みの後《のち》、御家老の御威光をもちて、呉家の物なりを家倉《いえくら》ともに押領せられむ結構とこそ承り候へ。御運とは申せ、力無き事とは申せ、御行末《おんゆくすえ》の痛はしさを思へば、眼も眩《く》れ、心も消えなむ計《ばか》りと、涙を流して申し候。妾もいかゞはせむと打ち惑ひ侍りしが、かよわき身の詮方《せんかた》もなく、案じ佗《わ》び候ひし折柄、此程の秋の取り入れごと相済み候ひて、稍《やや》落ち付き侍りし今宵《こよい》の事、彼《か》の雲井喜三郎といふ御仁、御供人《おんともびと》も召し連れ給はず、御羽織袴《おはおりはかま》も召されぬ儘《まま》、唯お一人にて、思ひもかけず吾家へお見えなされ候。
這《こ》は如何にとて皆々|走《は》せまどひ、御酒肴《ごしゅこう》取りあへず奥座敷に請《しょう》じ参らするうち、妾も化粧をあらためて御席にまかり出で侍りしが、彼《か》の御仁体を見奉《みたてまつ》るに、半面は焼け爛《ただ》れて偏《ひと》へに土くれの如く、又残る片側《かたつら》は、眉|千切《ちぎ》れ絶え、眥《まなじり》白く出で、唇|斜《ななめ》に偏《かたよ》りて、まことに鬼の形《すがた》とや云はむ。剰《あまつさ》へ何方《いずかた》にて召されしものか、御酒気あたりを薫《くん》じ払ひて、そのおそろしさ、身うちわなゝくばかりに侍り。そをやう/\に堪《た》へ忍びて、心も危ふく御酌《おしゃく》に立ち候ひしに、御盃の数いく程も無きうちに、無手《むず》と妾の手を執《と》り給ひつ。その時、妾、思はず手を引き候ひしに、御盃の中のもの、御膝に打ちこぼれしより、忽《たちま》ち御酒乱の体《てい》とならせ給ひ、押し止《とど》むる乳母を抜く手を見せず討ち放され候。妾は其の間に逃れ出で、やう/\に此処まで参り侍りしが、かばかり打ち続く吾家の不祥、又は、此身の不倖《ふしあわせ》のがれ方なく、たゞ死なむとのみ思ひ入り侍りしを、かく止《とど》められまゐらせ候。この上は唯《ただ》尼とやならむ。巡礼とやならむ。何国《いずく》の御方か存じ参らせねど、此の上の御慈悲《おんなさけ》に、そのすべ教へて賜はれかしと、砂にひれ伏して声を忍ぶ体《てい》なり。
虹汀聞き果てゝ打ち案ずる事|稍久《ややしばし》、やがて乙女を扶《たす》け起して云ひけるやう。よし/\吾に為《せ》ん術《すべ》あり。今はさばかり歎かせ給ふな。先《ま》づ其の絵巻物を披見して、御身《おんみ》の因果を明らめ参らせむと、六美女の手を曳《ひ》きて立ち去らむとする折しもあれ、松の陰より現はれ出でし半面鬼相の荒くれ武士、物をも云はず虹汀に斬りかゝる。虹汀、修禅の機鋒《きほう》を以て、身を転じて虚《くう》を斬らせ、咄嵯《とっさ》に大喝一下するに、彼《か》の武士白刃と共に空を泳いで走る事数歩、懸崖の突端より踏み外《はず》し、月光漫々たる海中に陥つて、水烟《すいえん》と共に消え失せぬ。
かくて虹汀は六美女を伴ひて呉家に到り、家人と共に彼《か》の乳母の亡骸《なきがら》を取り収め、自ら法事|読経《どきょう》して固く他言を戒《いまし》めつ。さて仏間に入りて人を遠ざけ、本尊|弥勒仏《みろくぶつ》の体中より彼《か》の絵巻物を取り出《いだ》し、畏敬《いきょう》礼拝を遂《と》げつゝ披見するに、美人の五体の壊乱《えらん》、膿滌《のうでき》せる様、只管《ひたすら》に寒毛樹立《かんもうじゅりつ》するばかりなり。すなはち仏前に座定《ざじょう》して精魂を鎮《しず》め、三昧《さんまい》に入る事十日余り、延宝二年十一月|晦日《みそか》の暁の一点といふに、忽然《こつぜん》として眼《まなこ》を開きて曰《いわ》く、
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凡夫の妄執を晴らすは念仏に若《し》くは無し 南無阿弥陀《なむあみだ》 南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》 南無阿弥陀 南無阿弥陀仏/\
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と声高らかに詠誦《えいじゅ》する事三|遍《べ
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