別せしを悲しみ、その屍《しかばね》の姿を丹青《たんせい》に写し止《とど》め、電光朝露の世の形見にせむと、心を尽して描き初《そ》めしが、如何なる故にかありけむ、その亡骸《なきがら》みる/\うちに壊乱《えらん》して、いまだその絵の半《なかば》にも及ばざるに、早くも一片の白骨と成り果て候ひぬ。あるじの歎き一方《ひとかた》ならず、遂に狂ほしき心地と相成り候ひしを、亡き夫人の妹くれがし氏《うじ》、いろ/\に介抱し侍りしが力及ばず、遂に夫人と同じ道に入り候ひぬ。その時妹のくれがし氏は、その狂へる人の胤《たね》を宿し、既に生み月に近き身に候ひしが、同じ歎きを悲しびて、やがて又、命《めい》を終らむばかりなりしを、やう/\に取り止め候ひしとか承り及びて候。
 去る程にその折ふし、筑前太宰府、観世音寺《かんぜおんじ》の仏体奉修の為め、京師《けいし》より罷下《まかりくだ》り候ひし、勝空《しょうくう》となん呼ばるゝ客僧《かくそう》あり。奉修の事|終《お》へて帰るさ、行脚《あんぎゃ》の次《ついで》に此のあたりに立ちまはり給ひしが、此の仔細を聞き及ばれて不憫《ふびん》の事とや思《おぼ》されけむ。吾家に錫《しゃく》を止《とど》め給ひてその巻物を披見《ひけん》せられ、仏前に引摂結縁《いんじょうけちえん》し給ひて懇《ねんごろ》に読経供養《どきょうくよう》を賜はりし後《のち》、裏庭に在りし大栴檀樹《だいせんだんじゅ》を伐《き》つて其の赤肉《せきにく》を選み、手づから弥勒菩薩《みろくぼさつ》の座像を刻《きざ》みて其の胎内に彼《か》の絵巻物を納め、吾家の仏壇の本尊に安置し、向後《こうご》この仏壇の奉仕と、此の巻物の披見は、此の家の女人のみを以て仕《つかまつ》る可し。そのほか一切の男子の者を構へて近づくる事|勿《なか》れと固く禁《いまし》めて立ち去り給ひぬ。
 その後、かの狂へる人の胤《たね》、玉の如き男子なりしが、事無く此世に生まれ出で、長じて妻を迎へ、吾家の名跡《みょうせき》を継ぎ候ひしが、勝空上人の戒めに依り、仏壇には余人を近づけしめず。閼伽《あか》、香華《こうげ》の供養をば、その妻女一人に司《つかさど》らしめつゝ、ひたすらに現世《げんぜ》の安穏、後生の善所を祈願し侍り。されども狂人の血を稟《う》け侍りし故にかありけむ。この男子壮年に及びて子宝《こだから》幾人《いくたり》を設けし後《のち》、又も妻女の早世に遭《あ》ふとひとしく乱心仕りて相果《あいは》て候。その後代々の男子の中に、折にふれ、事に障《さわ》りて狂気仕るもの、一人二人と有之《これあり》。その病態《さま》世の常ならず。或《あるい》は女人を殺《あや》めむと致し、又は女人の新墓《にいはか》に鋤鍬《すきくわ》を当つるなぞ、安からぬ事のみ致し、人々|之《これ》を止むる時は、その人をも撃ち殺し、傷つけ候のみならず、吾身も或は舌を噛み、又は縊《くび》れて死するなぞ、代々かはる事なく、誠に恐ろしき極みに侍り。
 かやうの仕儀に候へば、見る人、聞く人、などかは恐れ、危ぶまざらむ。あるひは男子の身にて彼《か》の絵巻物を窺ひたる祟《たた》りと申し聞え、又は不浄の女人の、彼《か》の仏像に近づける障《さわ》りかと怪しむなぞ、遠きも近きも相伝へて血縁を結ぶことを忌《い》み嫌ひ候為め、吾家の血統《ちすじ》の絶えなむとする事度々に及び候。さ候へば、あるひは金銀に明かし、又は人を遠き国々に求めて辛《から》くも名跡を相立て候ひしが、近年に及び候ては下賤|乞食《こつじき》に到るまでも、吾家の縁辺と申せば舌をふるはし身をわなゝかす様に侍り。只今にては血縁の者残らず絶え果て、妾《わらわ》、唯一人と相成りて候。わけても妾の兄|御前《ごぜん》二人は、此程引続きて悩乱の態《てい》となり、長兄は介隈《かいわい》の墓所を発《あば》き、次兄は妾を石にて打たむと仕るなぞ、恐ろしき事のみ致したる果《はて》、相次ぎて生命《いのち》を早め侍りしばかりにて、さる噂、一際《ひときわ》高まりたる折節に候へば大抵《およそ》の家の者は暇《いとま》を請ひ去り、永年召し使ひたる者も、妾を見候てため息を仕るのみ。はか/″\しく物云ふ者すらなく、わびしくも情なき極みと相成り果て候。
 さる程に、かゝる折柄、此の唐津藩の御家老職、雲井なにがしと申す人、此事を聞き及ばれ候ひて、御三男の喜三郎となん云へる御仁《ごじん》をば、妾が婿がねに賜はり、名跡を嗣《つ》がせらる可き御沙汰あり。召し使ひたる男女《なんにょ》共、あたゞに立ち騒ぎ打ち喜びて、かほどの首尾《しあわせ》はよもあらじと、今までに引き換へてさゞめき合ひ候ひしが、そが中に唯一人、妾を守《も》り育て候|乳母《めのと》の者、さまで嬉しからぬ面《おも》もちにて打ち沈み居り候故、その仔細を尋ね候ひしに、ため息して申し侍るやう。這《こ》はゆ
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