に在り。呉家四十九代の祖|虹汀《こうてい》氏の建立に係る――

 晨《あした》に金光を鏤《ちりば》めし満目《まんもく》の雪、夕《ゆうべ》には濁水《じょくすい》と化《け》して河海《かかい》に落滅す。今宵《こんしょう》銀燭を列《つら》ねし栄耀《えいよう》の花、暁には塵芥《じんかい》となつて泥土に委《い》す。三界は波上の紋《もん》、一生は空裡《くうり》の虹とかや。況《いわ》んや一旦の悪因縁を結んで念々に解きやらず。生きては地獄の転変に堕在し、叫喚鬼畜の相を現《げん》し、死しては悪果を子孫に伝へて業報《ごっぽう》永劫の苛責に狂はしむ。その懼怖《くふ》、その苦患《くげん》、何にたとへ、何にたくらべむ。
 こゝに此《この》因果を観じて如是《にょぜ》本末の理趣《ことわり》を究竟《くきょう》し、根元《こんげん》を断証して菩提心に転じ、一宇の伽藍《がらん》を起して仏智慧《ぶつちえ》を荘儼《しょうごん》し奉《たてまつ》り、一念|称名《しょうみょう》、人天咸供敬《にんてんげんくぎょう》の浄道場となせる事あり。その縁起を源《たず》ぬるに、慶安の頃ほひ、山城国、京洛、祇園の精舎《しょうじゃ》に近く、貴賤群集の巷《ちまた》に年経て住める茶舗|美登利屋《みどりや》といふがあり。毎年宇治の銘《めい》を選んで雲上《うんじょう》に献《たてまつ》り、「玉露」と名付けて芳《ほう》を全国に伝ふ。当主を坪右衛門《つぼえもん》と云ひ一男三女を持つ。男《なん》を坪太郎《つぼたろう》と名づけ、鍾愛《しょうあい》此上無かりしが、此|男子《なんし》、生得|商売《あきない》の道を好まず、稚《いとけな》き時より宇治|黄檗《おうばく》の道人、隠元《いんげん》禅師に参じて学才人に超えたり。かたはら柳生の剣法に達し、又画流を土佐派に酌《く》み、俳体を蕉風《しょうふう》に受けて別に一風格を成す。長じて空坪《くうへい》と号し、ひたすら山水を慕ひて復《また》、家を嗣《つ》ぐの志無し。然《しか》れども年長ずるに随《したが》ひ他に男子無きの故を以て妻帯を強ひらるゝ事一次ならず、学業未到の故を以て固辞すと雖《いえども》、間《かん》葛藤を避くるに遑《いとま》あらず。遂《つい》に、父坪右衛門の請《こい》により隠元老師の諭示を受くるに到るや、心機一転する処あり、
「二十五の今日まで聞かず不如帰《ほととぎす》」
 といふ一句を吾家の門扉に付して家を出で法体《ほったい》となりて一笠一杖《いちりゅういちじょう》に身を托し、名勝旧跡を探りつゝ西を志す事一年に近く、長崎路より肥前|唐津《からつ》に入り来る。時に延宝二年春四月の末つかた、空坪年二十六歳なり。
 空坪此地の景勝を巡りて賞翫する事一方ならず。虹の松原に因《ちな》んで名を虹汀《こうてい》と改め、八景を選んで筆紙を展《の》べ、自ら版に起して洽《あま》ねく江湖《こうこ》に頒《わか》たん事を念《おも》へり。かくて滞留すること半載《はんさい》あまり、折ふし晩秋の月|円《まど》かなるに誘はれて旅宿を出で、虹の松原に上る。銀波、銀砂に列《つら》なる千古の名松は、清光の裡《うち》に風姿を悉《つ》くして、宛然《えんぜん》、名工の墨技《ぼくぎ》の天籟《てんらい》を帯びたるが如し。行く事一里、漁村|浜崎《はまさき》を過ぎて興|尚《なお》尽きず。更に流霜《りゅうそう》を逐《お》ふ事半里にして夷《えびす》の岬《はな》に到り、巌角に倚《よ》つて遥かに湾内の風光を望み、雁影を数へつゝ半宵《はんしょう》に到りぬ。
 折しもあれ一人の女性《にょしょう》あり。年の頃二八には過ぎじと思はるゝが、華やかなる袖を飜《ひるがえ》し、白く小さき足もと痛ましげに、荒磯の岩畳を渡りて虹汀の傍《かたわら》に近づき来り、見る人ありとも知らず西方に向ひて手を合はせ、良久《しばし》祈念を凝《こ》らすよと見えしが、涙を払ひて両袖をかき抱き、あはや海中に身を投ぜむ気色《きしょく》なり。虹汀|駭《おどろ》き馳せ寄りて抱き止め、程近き松原の砂清らかなる処に伴ひ、事の仔細を問ひ訊すに、かの乙女、はじめはひたぶるに打ち泣くのみなりしが、やう/\にして語り出づるやう。妾《わらわ》は此の浜崎といふ処に、呉《くれ》の某《なにがし》といふ家の一人娘にて六美女《むつみじょ》と申す者に侍《はべ》り。吾家《わがいえ》、代々此処の長をつとめて富み栄え候ひしが、満つれば欠くる世の習ひとかや。さるにても亦《また》、世に恐ろしき因縁とこそ申しつれ。昔より吾家に乱心の血脈尽きず。只今に及び候ては、妾唯一人、悲しくも生きて残り居る有様にてさむらふ。
 その最初《はじめ》を如何にと申すに、吾家に祖先より伝はれる一軸の絵巻物のはべり。中に美婦人の裸像を描き止《とど》めたり。承《うけたまわ》り及びたる処によれば、呉家の祖先なにがしと申せし人、最愛の夫人に死
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