映っている火影《ほかげ》がフッと暗くなりました……が……これが現在の娘の死骸を眼の前に置いた母親の言えた事で御座いましょうか……それから、お八代さんは急いで梯子から降りて来て、私に「お医者お医者」と云いながら、土蔵《くら》の戸前の処に走って行きましたが……お恥しい事ながら、その時は何の事やら解りませんでしたので、又、解ったにしたところが、腰が抜けておりますから行かれもしません。只、恐ろしさの余り、立っても居てもいられずに慄《ふる》えておりましたようで御座います。
 ――土蔵の戸前が開きますと、中から若旦那が片手に鍵を持って、庭下駄を穿《は》いて出て来られて、私共を見てニッコリ笑われましたが、その眼付きはもう、平常《いつも》と全く違うておりました。待ちかねていたお八代さんは、その手からソッと鍵を取り上げて、何か欺《だま》し賺《すか》すような風付《ふうつ》きで、耳に口を当てて二言三言云いながら、サッサと若旦那の手を引いて、離家《はなれ》に連れ込んで寝かして御座るのが、私の処からよく見えました。
 ――それからお八代さんは引返して、土蔵《くら》の二階へ上って、何かコソコソやっているようで御座いましたが、私はその間、たった一人になりますと、生きた空もない位恐ろしゅうなりましたので、這うようにして土蔵のうしろの裏木戸まで来まして、そこに立っている朱欒《じゃがたら》の樹に縋《すが》り付いて、やっとこさと抜けた腰を伸ばして立ち上りました。すると頭の上の葉の蔭で、土蔵の窓の銅張《あかがねば》りの扉がパタンと閉《し》まる音が致しましたから、又ギックリして振り返りますと、今度は土蔵の戸前にガッキリと鍵をかけた音が致しまして、間もなく左手に、巻物をシッカリと掴んだお八代さんが裸足《はだし》のまま髪を振り乱して離家の方へ走って行きました。そうして泥足のまま縁側から馳け上りまして、たった今寝たばかりの若旦那を引き起して巻物をさしつけながら恐ろしい顔になって、何か二言三言責め問うているのが、もう明るくなった硝子《ガラス》戸越しによく見えました。
 ――若旦那はその時に、昨日《きのう》の石切場の方を指して、頭を振ったり、奇妙な手真似や身ぶりを交《ま》ぜたりして、何かしら一所懸命に話して御座るように見えました。そのお話はよく聞いてもおりませんでしたし、六ヶ敷《むずかし》い言葉ばかりで、私共にはよく判りませんでしたが「天子様のため」とか「人民のため」とかいう言葉が何遍も何遍も出て来たようで御座いました。お八代さんも眼をまん丸くしてうなずきながら聞いているようで御座いましたが、そのうちに若旦那はフイと口を噤《つぐ》んで、お八代さんが突きつけている巻物をジイッと見ていられたと思うとイキナリそれを引ったくって、懐中《ふところ》へ深く押込んでしまわれました。するとそれを又お八代さんは無理矢理に引ったくり返したので御座いましたが、あとから考えますと、これが又よくなかったようで……若旦那様は巻物を奪《と》られると気抜けしたようになって、パックリと口を開いたまま、お八代さんの顔をギョロギョロと見ておられましたが、その顔付きの気味のわるかった事……流石《さすが》のお八代さんも怖ろしさに、身を退いて、ソロソロと立ち上って出て行こうとしました。するとその袖《たもと》を素早く掴んだ若旦那様は、お八代さんを又、ドッカリと畳の上に引据えまして、やはりギョロギョロと顔を見ておられたと思うと、さも嬉しそうに眼を細くしてニタニタと笑われました。
 ――その顔を見ますと、私は思わず水を浴びせられたようにゾッとしました。お八代さんも慄え上ったらしく、無理に振り切って行こうとしますと、若旦那はスックリと立ち上って、縁側を降りかけていたお八代さんの襟髪《えりがみ》を、うしろから引っ捉えましたが、そのまま仰向けに曳《ひ》き倒して、お縁側から庭の上にズルズルと曳《ひ》きずり卸《おろ》すと、やはりニコニコと笑いながら、有り合う下駄を取り上げて、お八代さんの頭をサモ気持|快《よ》さそうに打って打って打ち据えられました。お八代さんは見る見る土のように血の気《け》がなくなって、頭髪がザンバラになって、顔中にダラダラと血を流して土の上に這いまわりながら死に声をあげましたが……それを見ますと私は生きた心が無くなって、ガクガクする膝頭を踏み締め踏み締め腰を抱えて此家《ここ》へ帰りまして「お医者お医者」と妻《かない》に云いながら夜具を冠《かぶ》って慄えておりました。そうしたらそのお医者の宗近《むねちか》どんが、戸惑《とまど》いをして私の家へ参りましたので「呉さんの処《とこ》だ呉さんの処《とこ》だ」と追い遣りました。
 ――私が見ました事はこれだけで御座います……ヘイ……皆正真正銘で、掛け値なしのところで御座います。あと
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