かも知れませぬので、別に不思議がる事はなかった筈で御座いますが、昼間の事を思い出しましたせいか、思わずハッとして立ち止りましたので……するとお八代さんもうなずきまして、土蔵《くら》の戸前の処へまわって行きましたが、内側からどうかしてあると見えまして、土戸《つちど》は微塵《みじん》も動きません。すると、お八代さんは又うなずいて、すぐ横の母屋の腰板に引っかけてある一間半の梯子《はしご》を自分で持って来て、土蔵の窓の下にソッと立てかけて、私に登って見よと手真似で云いつけましたが、その顔付きが又、尋常で御座いません。その上に、その窓を仰いで見ておりますと、何かチラチラ灯火《あかり》がさしている模様で御座います。
 ――私は御承知の通り大の臆病者で御座いますから、どうも快《よ》い心地が致しませんでしたが、お八代さんの顔付きが、生やさしい顔付では御座いませんので、余儀なく下駄を脱ぎまして、尻を端折《から》げまして、梯子を登り詰めますと、その窓の縁に両手をかけながら、ソロッと中の様子を覗いたので御座いますが……覗いている中《うち》に足の力が抜けてしもうて、梯子が降りられぬようになりました。それと一緒に窓の所にかけておりました両手の力が無くなりましたようで、スッテンコロリと転げ落ちますと、腰をしたたかに打ちまして、立ち上る事も逃げ出す事も出来なくなりました。
 ――ヘイ。その時に見ました窓の中の光景《ありさま》は、一生涯忘れようとして忘れられません。そのもよう[#「もよう」に傍点]を申しますと、土蔵《くら》の二階の片隅に積んでありました空叺《あきがます》で、板張りの真中に四角い寝床のようなものが作ってありまして、その上にオモヨさんの派手な寝巻きや、赤いゆもじ[#「ゆもじ」に傍点]が一パイに拡げて引っかぶせてあります。その上に、水の滴《したた》るような高島田に結《ゆ》うたオモヨさんの死骸が、丸裸体《まるはだか》にして仰向けに寝かしてありまして、その前に、母屋《おもや》の座敷に据えてありました古い経机《きょうづくえ》が置いてあります。その左側には、お持仏《じぶつ》様の真鍮《しんちゅう》の燭台が立って百|匁蝋燭《めろうそく》が一本ともれておりまして、右手には学校道具の絵の具や、筆みたようなものが並んでいるように思いましたが、細かい事はよく記憶《おぼ》えませぬ。そうしてそのまん中の若旦那様の前には、昨日《きのう》石切場で見ました巻物が行儀よく長々と拡げてありました……ヘイ……それは間違い御座いませぬ。たしかに昨日見ました巻物で、端《はじ》の金襴《きんらん》の模様や心棒(軸)の色に見覚えが御座います。何も書いてない、真白い紙ばかりで御座いましたようで……ヘイ……若旦那様はその巻物の前に向うむきに真直に座って、白絣《しろがすり》の寝巻をキチンと着ておられたようで御座いますが、私が覗きますと、どうして気《け》どられたものか静かにこちらをふり向いてニッコリと笑いながら「見てはいかん」という風に手を左右に振られました。尤も、斯様《かよう》にお話は致しますものの、みんな後から思い出した事なので、その時は電気にかかったように鯱張《しゃちば》ってしまって、どんな声を出しましたやら、一切夢中で御座いました。
 ――お八代さんはその時に私を抱え起しながら何か尋ねたようで御座いますが、返事を致しましたかどうか、よく覚えませぬ。土蔵の窓を指《ゆびさ》して何か云うておったようにも思いますが……そうするとお八代さんは何か合点《がてん》をしたようで、倒れかかった梯子を掛け直して自分で登って行きました。私は止めようとしましたが腰が立たぬ上に歯の根が合わず、声も出ませぬので、冷い土の上に、うしろ手を突いたまま見上げておりますと、お八代さんは前褄《まえづま》をからげたままサッサと梯子を登って、窓のふち[#「ふち」に傍点]に手をかけながら、矢張《やっぱ》り私と同じようにソロッと覗き込みました。……が……その時のお八代さんの胆玉《きもたま》の据《す》わりようばっかりは、今思い出しても身の毛が竦立《よだ》ちます。
 ――お八代さんは窓から、中の様子をジッと見まわしておりましたが「お前はそこで何事《なんごと》しおるとな」と落付いた声で尋ねました。そうすると中から若旦那様が、いつもの通りの平気な声で「お母さん……ちょっと待って下さい。もうすこしすると腐り初めますから……」と返事なさるのがよく聞えます。四囲《あたり》がシンとしておりますけに……そうするとお八代さんは、チョット考えておるようで御座いましたが「まあだナカナカ腐るもんじゃない。それよりも最早《もう》夜が明けとる故《けん》、御飯をば喰べに降りて来なさい」と云いますと、中から「ハイ」と云う返事がきこえまして、若旦那が立上られた様子で、窓際に
前へ 次へ
全235ページ中140ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング