《まさか》、それがあのような事の起る前兆《まえおき》とは夢にも思い寄りませなんだ。ただ学問のある人はあのような奇妙な素振りをするものか……と思い思い忙《せわ》しさに紛《まぎ》れて忘れておりましたような事で……ヘイ……。
――それから昨晩、家中《うちじゅう》の者が一人残らず寝静まってしまいましたのが午前の二時頃の事で御座いましたろうか。花嫁御のオモヨさんと、母親のお八代さんとは母屋《おもや》の奥座敷に……それから花婿どんの若旦那と、親代りの附添役になりました私は、離家《はなれ》に床を取って寝《やす》みました。尤《もっと》も私は若旦那よりもズット遅れまして、十二時過ぎに湯に這入りまして、離家の戸締りを致しますと、若旦那のお次の間の、茶の間になっている処へ床を取って寝みましたが、年寄りの癖で、今朝《けさ》ほど、まだ薄暗いうちに眼が醒めましたので、便所へ行こうと思いまして、二方|硝子《ガラス》雨戸の薄ら明りを便《たよ》りに若旦那のお室《へや》の前の縁側まで来ますと、そこの新しい障子が一枚開いて、その前の硝子雨戸が又一枚開いてあります。それからお室の中を覗きますと、寝床の中に若旦那のお姿が見えません。……ハテ妙な事……と思いますとチョット胸騒ぎが致しましたが、外は小雨が降っておりましたので、新しい台所の上り口から自分の下駄を持って参りまして、飛び石伝いに母屋の方へ参りますと、奥座敷の戸袋の処が一枚開いて、そこにすこしばかり砂のついた下駄の跡が薄明りなりに見えるようで御座います。私はそこで又チョット考えましたが、間もなく思い切って下駄を脱いで、抜き足さし足で廊下を伝って行って、奥座敷の硝子障子を覗き込みますと、暗い電燈の下に、お八代さんは片手を投げ出して寝ておりますが、その横に敷いてあるオモヨさんの寝床は藻抜《もぬ》けの殻で、夜具が裾の方に畳み寄せてありまして、緋《ひ》ぐくしの高枕が床のまん中に置いてある切りで御座います。
――私はその時にようやっと最前日暮れ方に見た事を思い出しまして……ナアンダ、そんな事だったか。それなら別段心配せんでもよかったに……と、どうやら胸を撫で卸《おろ》しました。……が……しかし又考えてみますと、この道ばかりは別とはいえ、あの若旦那のなさる事にしてはチョット様子が可怪《おか》しいと気がつきましたので、又、何とのう胸騒ぎがし初めました。やっぱり虫が知らせるというもので御座いましつろうか……とにかく自分の手落ちになってはならぬ。皆が起きぬうちに……と思いましたから、お八代さんを起したので御座いますが、私がオモヨさんの寝床を指さしまして、コレコレと申しますと、眼をこすっておりましたお八代さんはハッとした様子で……「この頃一郎が、何か巻物のようなものをば持っとるのを見かけはせんじゃったか」……と不意に妙な事を尋ねながら、寝床の上にピタリと座り直しました。私は、しかし、その時までは何も心付きませんので「……ヘエ……昨日《きのう》、石切場で会いました時に、何か存じませんが白い紙ばかりの、長い巻物を読んで御座ったようで……」と申しましたが、その時のお八代さんの血相の変りようばっかりは今でも忘れません……「又出て来たか――ッ」とカスレたような声で申しますと、唇をギリギリと噛んで、両手を握り固めてブルブルと慄《ふる》わして、眼を逆様《さかさま》に釣り上げて、チョット取り詰めた(逆上喪神の意)ようになりました。私は何事か判らぬままに胆《きも》を潰《つぶ》しまして、尻餅《しりもち》をついたまま見ておりますと、やがてお八代さんは気を取り直した様子で、涙をハラハラと流したのを袂《たもと》で拭い上げまして、泣き笑いのような顔をしながら「イヤイヤ。私の思い違いかも知れぬ。お前の見違いかも知れぬ。とにかくどこに居るか探しておくれ」と云うて立ち上りました。その時はもう平生《いつも》とかわらぬ風付《ふうつ》きで、先に立って縁側から降りて行きましたが、実はよほど周章《うろた》えて御座ったと見えまして、跣足《はだし》で表口の方へ行かっしゃる後から、私が下駄を穿《は》いて蹤《つ》いて行きました。
――小雨はもうその時には降りやんでおりましたようですが、間もなく離家《はなれ》の前の……ここから見えますあの一番右側の三番|土蔵《ぐら》の前まで来ました時に、私は土蔵《くら》の北向きになっている銅張《あかがねば》りの扉《と》が、開いたままになっているのに気が付きまして、先へ行くお八代さんを引止めて指をさして見せました。あとから考えますとこの三番土蔵は、麦秋《むぎ》頃まで空倉《あきぐら》で、色々な農具が投げ込んでありまして出入りが烈《はげ》しゅう御座いますので、若い者がウッカリして窓を明け放しにしておく事がチョイチョイ御座いました。この時なぞもそうだった
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