の人が云われた……今にわかる……今にわかる……」と云われました。私は何だか訳がわかったような、わからぬような妙な気持ちになりましたが、しかし、その若旦那のものの仰言《おっしゃ》りようが、何とのう上《うわ》の空《そら》で、平生《いつも》とは余程違うて御座る事に気が附いて参りましたので、執拗《しつこい》ようでは御座いましたが今一度念のために「ヘエー。そのようなものを誰が差し上げました」と尋ねますと、又も穴のあく程、私の顔を凝視《みつめ》ておられました若旦那様は、やがて又、ハッと正気づかれたように眼を丸くして、二三度パチパチと瞬《またたき》をされました。そうして何を考えられましたものか、すこし涙ぐんで口籠《くちごも》りながら「これを僕に呉《く》れた人かね……それは死んだお母さんの知り合いの人で、お母さんから秘密に預かった巻物を私に返しに来たのだ。その人は又そのうちにキット私にめぐり会おう。名前はその時に云って聞かせよう……と云ったきりで、どこかへ消え失せてしまったが、私はその人が誰だかチャンと知っている。しかし……まだ何も云われん云われん。お前もこの事を他人に云う事はならん。よいか……サア行こう行こう」と云われるうちに若旦那は俄《にわか》にソワソワとなられて、石の上を飛び飛びに往来に出て、私の先に立ってズンズンお歩きになりましたが、そのおみ[#「おみ」に傍点]足の早かった事……まるで物に取り憑《つ》かれたようで、平生《いつも》とまるで違うておりました。今から思いますと、あの時からもう、いくらか妙な萌《きざ》しがありましたようで……。
――若旦那が家へお着きになりますと、すぐにお八代さんに「只今……遅うなりました」と云われましたが、お八代さんが「仙五郎に会いなすったか」と尋ねますと「ハイ。石切場の所で会いました。今そこに帰って来ております」と云うて、うしろから這入って来た私を指示《ゆびさ》されまして、サッサと離家《はなれ》の方へ行かれました。お八代さんは、それで安心したらしく、私には別に何にも尋ねずに、唯「御苦労」を云うただけで、横の板張に親椀《おやわん》を並べて拭いていたオモヨさんに眼顔で、差図《さしず》をしますと、オモヨさんは大勢に見られながら、恥かしそうに立上って、若旦那の後から鉄瓶を提《さ》げて、離家の方へ行きました。
――それからもう一つ、これは後から訳が判ったように思うので御座いますが、日が暮れるまえにチョット妙な事が御座いました。……私はそれから裏口の梔子《くちなし》の蔭に莚《むしろ》を敷きまして、煙管《きせる》を啣《くわ》えながら先刻《さいぜん》の蒸籠《せいろ》の繕《つくろ》い残りを綴《つづ》くっておりましたが、そこから梔子の枝越しに、離家の座敷の内部《ようす》が真正面《まむき》に見えますので、見るともなく見ておりますと、若旦那は離家のお座敷の机の前で着物を着換えさっしゃってから、オモヨさんが入れたお茶を飲みながら、何かしらオモヨさんに云い聞かせて御座るようで……硝子《ガラス》雨戸の中ですから声はわかりませぬが、お顔の色が平生《いつも》になく青ざめて、眉がヒクヒクと動いているあんばい[#「あんばい」に傍点]は、まるで何か叱って御座るようにも見えましたが、しかしよく気をつけて見ますと、そうでも御座いません。当の相手のオモヨさんはその前で洋服を畳みながら、赤い顔をして笑い笑い「イヤイヤ」と頭を横に振っているようで、まことに変なアンバイで御座いました。
――ところがそれを見ると若旦那はいよいよ青い顔になられまして、オモヨさんにピッタリとニジリ寄って行かれました。そうしてここから見えます、あの三ツ並んだ土蔵《おくら》の方角を指さして見せながら、片手をオモヨさんの肩にかけて、二三度ゆすぶられますと、最前から火のように赤うなって身体《からだ》をすぼめていたオモヨさんが、やっとのこと顔をあげて、若旦那と一緒に土蔵《おくら》の方を見ましたが、やがて嬉しいのか悲しいのか解らぬような風付《ふうつ》きで、水々しい島田の頭をチョットばかり竪《たて》に振ったと思うと、首のつけ根まで紅くなりながら、ガックリとうなだれてしまいました……まるで新派の芝居でも見ておりますようなアンバイで……ヘイ……。
――するとその態度《ようす》をジット見て御座った若旦那は、オモヨさんの肩に手をかけたまま中腰になって硝子《ガラス》雨戸越しにそこいらをジロジロと見まわして御座るようでしたが、やがて軒先《のきさき》の夕空を見上げながら、思い出したように白い歯を出して、ニッタリと笑われました。そうして赤い舌を出してペロペロと舌なめずりをさっしゃったようでしたが、その笑顔の青白くて気味の悪う御座いました事というものは、思わずゾッと致しました位で……ヘイ……けれども真逆
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