ているところで御座いましたけに、やりかけておりました蒸籠《せいろ》の修繕《つくろい》を片づけまして、煙草を一服吸うてから草鞋穿《わらじば》きのまま出かけましたのが、かれこれ四時頃で御座いましつろうか。軽便鉄道《けいべん》で西新町《にしじんまち》まで行きまして、今川橋の電車の行き詰りの処に、煮売屋《にうりや》を開いております私の弟の処へ立ち寄りまして「うちの若旦那を見かけなんだか」と問《たず》ねますと「おお……その若旦那なら、今から二時間ばかり前にここを通って、軌道には乗らずに歩いて西の方へ行かっしゃった。初めて大学の服をば着て御座るのを見た故《けん》、二人が表に出て、しばアらく見送っておった。良《え》え婿どんじゃなア」と夫婦で申します。
 ――若旦那は平生《ふだん》からこの軌道の煙のにおいがお嫌いだそうで、高等学校に行かっしゃる時も運動になるからちうて、毎日毎日姪の浜から田圃《たんぼ》伝いに歩かっしゃった位で御座います。しかし、それにしても今川橋から姪の浜までは一里そこらで御座いますから、二時間もかかる筈はないが……と心配しいしい帰りかけましたのが四時半頃で御座いましつろうか。国道沿いの軌道伝いに帰って参りましたところが、ちょうど姪浜《ここ》から程近い道傍《みちばた》の海岸側に在る山の裾に石切場が御座います。切っております石は姪浜石《めいのはまいし》と申しまして黒い柔かい石で、お帰りに御覧になればお解りになりますが、福岡の方から参りますにも、又、こっちから福岡の方角に出ますにも、是非とも通らなければならぬ処で御座います。……あの石切場の石が屏風のように突立って、西日を赤々と受けております奥の方の薄暗い処へ、四角い帽子を冠った洋服の姿がチラリと動いて見えたように思いました。
 ――私は眼が悪う御座いますが、これこそと思って近寄って見ますと、案《あん》の定《じょう》若旦那様で、高岩の蔭に腰をかけて、何か巻物のようなものを見ておいでになります。私は、そこいらに積み重ねてある切石の上を伝うて、ちょうど若旦那の頭の上に出ましたので、ソロ――ッと首を伸ばして覗いて見ますと、それは長い長い巻物の途中と思われる処で御座いましたが、不思議なことには、それは只の白い紙ばかりで、何一つ書いて無いもののように見えました。しかし若旦那の眼には、何か見えておりましたらしく、その白い処を一心になって見て御座る様子で御座います。
 ――私は呉様のお家に祟《たた》る絵巻物があるという事をかねてから噂には聞いておりました。けれどもそれはもう余程大昔の事で、今の世の中に、そのような事があろう筈はない。あっても話ばかりと思うておりましたけに、真逆《まさか》その巻物がソレであろうとは夢にも思いつきません。やはり眼が悪いのだろうと思いまして、若旦那に気取《けど》られぬように、出来るだけ顔を近付けて見ましたけれども、白い紙はやはり白い紙で、いくら眼をこすりましても、物が書いてある模様は見えません。
 ――サア私は不思議でならなくなりました。若旦那が何を見て御座るのか、一つ聞いて見ようと思いますと、急いで岩角を降りました。そうしてワザと遠廻りをして、若旦那の前に出てヒョッコリ顔を合わせますと、若旦那は私が近寄りましたのに気もつかれぬ様子で、半開きの巻物を両手に持ったまま、西の方の真赤になった空を見て何かボンヤリと考えて御座るようで御座います。そこで私が咳払いを一つ致しまして「モシ若旦那」と声をかけますと、ビックリさっしゃった様子で、私の顔をツクヅク見ておいでになりましたが「おお、仙五郎か。どうしてここへ来た」と初めて気が附いたようにニッコリ笑われますと、裏向きにして持って御座った巻物を捲き納めながら、グルグルと紐《ひも》で巻いてしまわれました。私はその時若旦那が、何か余程大切な事を考え御座ったものとばかり思っておりましたから、何の気もつかずに、お八代さんが心配して御座る事を話しまして「一体それは何の巻物で御座いますか」と手に持って御座るのを指して尋ねました。そうすると、又いつの間にか背振山《せぶりやま》の方をふり返って、何か考えて御座った若旦那様は、又、ハッとしたように私の顔と、巻物とを見比べておられましたが「これかね。これは僕がこれから仕上げねばならぬ巻物で、出来上ったら天子様に差し上げねばならぬ大切な品物だ。誰にも見せる訳に行かん」と云い云い外套の下の洋服のポケットにお入れになりました。
 ――私はいよいよ訳がわからぬようになりましたが「しかし、その中には何が書いて御座いますので……」と申しますと、若旦那は心持ち赤くなられまして、苦笑いをしながら「それは今にわかる。とても面白いお話と、恐ろしい絵が描《か》いてある。僕達が式を挙げる前に是非とも見ておかねばならぬものだとそ
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