てた学校なら、お寺も御先祖が建てさっしゃったお寺で、跡目相続人《あととり》の若旦那(呉一郎)は大幸福者《おおしあわせもの》で御座いますのに、思いがけない事が出来ましたもので……。
 ――若旦那様は、温柔《おとな》しい、口数の尠《すくな》い御仁《おひと》で御座いました。直方《のうがた》からこちらへ御座って後《のち》というもの、いつも奥座敷で勉強ばっかりして御座ったようですが、雇人《やといにん》や近所の者にも権式を取らしゃらず、まことに評判がよろしゅう御座いました。それに今までは呉家の人と申しましても後家のお八代さんと十七になる娘のオモヨさんと二人切りで、家《うち》の中が何となく陰気で御座いましたが、一昨年《おととし》の春から若旦那が御座らっしゃるようになると、妙なもので、家内がどことなく陽気になりまして、私共も働らき甲斐があるような気持が致して参りましたような訳で……ヘイ……。そのうちに、今年の春になりましてからは又、若旦那様が福岡の高等学校を一番の成績で卒業して、福岡の大学に又やはり一番で這入らっしゃると、そのお祝を兼ねて、若旦那とオモヨさんの祝言《おめでた》があるというような事で、呉さんのお家はもう、何とのう浮き上るようなあんばいで……ヘイ……。
 ――ところが恰度《ちょうど》昨日《きのう》(四月二十五日)の事で御座います。福岡|因幡町《いなばちょう》の記念館という大きな西洋館の中で、高等学校の生徒さんの英語の演説会がありましたそうですが、若旦那様はその時に、卒業生の総代になって、一番初めの演説を受持って御座るとかで、高等学校の服を着て行こうとなさるのをお八代さんが引止めて、大学校生徒の新しい服を着せてやろうとしました。その時に若旦那は苦笑いをしながら、どうしても着て行かぬ。まだ早いと云うて逃げようとされますのを、お八代さんが無理矢理に着せて、あとを見送りながら、さも嬉しそうにして涙を拭いておりました態度《ようす》が、今でも眼に縋《すが》っております。今から思えばあの時が、若旦那の大学服の着納めで御座いましたろう。
 ――ところで又、そのあくる日のきょうは今も申します通り、若旦那様とオモヨさんの、お芽出度《めでた》い日取りになっておりましたので、私共も一昨日《おととい》から泊り込みで手伝いに参っておりました。オモヨさんも高島田に結《ゆ》うて、草色の振袖に赤襷《あかだすき》がけで働いておりましたが、何に致せ容色《きりょう》はあの通り、御先祖の六美《むつみ》様の画像も及ばぬという、もっぱらの評判で御座いますし、それに気質《きだて》がまことに柔和《すなお》で、「綺倆《きりょう》千両、気質が千両、あとの千両は婿次第」と子守女が唄うている位で御座いました。又、若旦那様はと申しますと年は二十歳《はたち》という事で御座いますが、分別といい、物ごしといい、三十近い者でも追い付かぬ位シッカリして御座って、ことに男ぶりが又御覧でも御座いましつろうが、お公卿《くげ》様にも無かろうと思われる位、品行がよろしゅう御座いましたので、これ位の夫婦は博多にもあるまいという噂で御座いました。……それにお支度が又金に飽《あ》かしたもので、若旦那の方から婿入りの形にするために、地境《じざかい》の畠を潰しまして、見事な離家《はなれ》が一軒建ちました位で、そのほか着物は、福岡一の京屋呉服店から仕立てて来る。お料理の方も昨日《きのう》から、やはり福岡一の魚吉《うおきち》という仕出し屋が持ち込んで騒いでいるという勢いで、後家さんの気張りようというたなら大したもので御座いました。
 ――ところが昨日《きのう》の演説会での若旦那様のお役目というのはホンのチョットで、どんなに遅うなっても二時までには間違わずに帰ると云いおいて行かれたので御座いますが、とやかく致しておりますうちに三時が過ぎましても、お帰りの姿が見えませぬ。若旦那はこのような事は決して御間違いにならぬ性分で御座いましたので、私は年寄役に、チョットこの事を不審を打ちますと皆の者は「おおかた演説の初まりが遅うなったとじゃろう」なんぞと申しまして格別気にかけませなんだ。しかし今までにこのような事は一度も無いので、折柄が折柄では御座いますし、私も心配せぬでは御座いませんでしたが、ツイ忙《せわ》しいのに紛《まぎ》れておりますと、そのうちに日和癖《ひよりぐせ》で、空が一面に曇って参りまして、長い春の日が俄《にわ》かに夕方のように暗くなりました。すると、それで気がついたものと見えまして、明日《あす》からは母親のお八代さんが、濡れ手を拭き拭き私を物蔭に呼びまして「二十歳《はたち》にもなっとるけん間違いはなかろうが、まだ帰らぬ模様《ごと》ある故《けん》、そこいらまで見に行ってくれまいか」という頼みで御座います。私もちょうどそう思う
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