べく、目下材料の整理中に属すれども、その一班を摘要すれば、元来この屍神、屍鬼、もしくは火車等と称する妖異現象は、狐猫《こびょう》の類族、又は鴉《からす》、梟《ふくろう》等の怪禽妖獣の族の所業なるが如く信ぜられおる傾向あり。然れども事実は左《さ》に非《あら》ず。すなわちそれ等の伝説記録等に拠って、屍体飜弄の状況を按見《あんけん》するに、まず劈頭《へきとう》に、棺柩《かんきゅう》中、もしくは床上に静臥安居しおりたる屍体が忽然《こつぜん》として立上り、虚空を走るという形容あり。続いて眼を閉じ、毛髪と両手とを力無く垂下したる亡者が、或は逆立《さかだち》し、或は飜筋斗返《とんぼがえ》りし、斜立《しゃりつ》したるまま静止し、又は行歩《こうほ》し、丸太転び、尺蠖歩《しゃくとりあゆ》み、宙釣り、逆釣《さかづ》り、錐揉《きりも》み、文廻《ぶんまわ》し廻転、逆反《さかぞ》り、仏倒《ほとけだお》し、うしろ返り、又は跳ね上り、飜落《ほんらく》するなぞ、恰《あたか》も何者かが手を加えて操縦せるが如くなる、あらゆる奇抜なる形状と運動とを描き現わすものとなせるが、尚よく冷静、仔細にこの形容を観察する時は、此《かく》の如き形状と運動とは、恰も彼《か》の無邪気なる小児が、人形、生物体、もしくは人像に類せる物体を飜弄して、あらゆる残忍なる姿勢動作を演ぜしめつつ、嬉戯《きぎ》満悦せる情態に酷似せるを看取し得べし。しかも当該小児は此の如き遊戯に際し、自ら手を加えて飜弄しつつある事実を殆ど忘れおり、さながらに人形が自己の意志を直感して、好むがままに変化躍動しつつあるかの如く錯覚しつつ、一種の残忍性を満足せしめおる心理は、吾人の日常随所に発見し得るところなり。而《しか》して此《かく》の如き生物、もしくは擬生物体飜弄の心理は、吾々人類の祖先が、その野蛮蒙昧時代に於て獲物、もしくは敵手を征服捕獲し、又は斃《たお》し得たる際の満悦と勝利感の高潮によって、恰《あたか》も現在の食肉禽獣、虫類間に遺伝残存しおるが如き獲物飜弄の高等なるものを行いたる習性が変形遺伝せしもの(敵手の首級を投げ上げ投げ上げ歓喜したる史実厳存す。且つ、かかる擬生物体飜弄の習性が主として男児に現われ易き事実に注意すべし――拙著、心理遺伝本論中、変型遺伝の部参照)なる事実と照合する時は、かかる心理遺伝が、斯《かく》の如き屍体飜弄の夢中遊行を誘起し得べき事、疑《うたがい》を容れざるべし。
次に、如上の考察を事実と照合して具体的に説明すれば、まず、或る瀕死の病人に最後迄附添いおりたる者、又は、屍体の始末をなしたる人間が睡眠後……特に介抱その他に依る身神《しんしん》の疲労又は一種の安心等のために平常よりも深き熟睡に陥りたる場合に於て、その屍体より受けたる深刻なる暗示のために、前記の如き残忍性を帯びたる夢遊心理を誘起され、未葬もしくは既葬の屍体を取り出して飜弄したりとせむか。自身は殆どその自ら手を下したる事実を記憶せざるべきは当然と見るを得べし。或は、半ば朦朧《もうろう》状態に於て意識せるものとするも、彼《か》の小児の人形飜弄の如く、自己が手を下したるものとは思惟《しい》せずして、屍体そのものの活躍なりと錯覚し、一種の悪夢の如きものと信じつつ屍体を飜弄して、どこへか遺棄し去り、又は棺桶等に投入返還したるまま、床に帰りて就寝したる者が、翌朝に到りて屍体の変位、紛失等を発見するや大いに驚き、妖異の所業《しわざ》と解釈して斯《か》かる伝説の由縁《ゆうえん》を作るべき事は疑を容れず、すなわちかかる伝説、口碑の殆ど全部が、屍体に側近する者の些《すく》なき貧家の不幸事、もしくは屍体一個、側近者一個を題材として伝えられおるを見ても、その妖異の主人公が屍体そのもの、もしくは他の獣鬼等に非《あら》ず、傍《かたわら》に眠りおりたる者の夢中遊行に依るものなる事を察するに足るべく、現今、行われおる多人数の通夜の習慣は、この種の妖異の防遏《ぼうあつ》に最も有効なる事が古来|幾多《いくた》の人々の経験に依って知、不知の間に確認せられおりし事を今日に立証しおるものと見るを得べし。又、死者の枕頭《ちんとう》に刃物を置く習慣は、その刃物の光鋩《こうぼう》、もしくは、その形状の凄味《すごみ》より来る視覚上の刺戟暗示を以て、この種の夢遊病者の幻覚を破るに有効なるものありしより起りし習慣に非ざるなき乎《か》。いずれにしても斯《かく》の如く観察し来る時は、この屍体飜弄なる夢遊状態の存在は疑う余地なきところにして、特に通夜の習慣及び火葬の流行以前には、屍体の側近者によりてかなり多数にこの種の夢遊状態が実現されおりし事は自明の理なるべし。
次に如上の研究考察をこの事件と照合するに、当夜に於ける呉一郎の女性絞殺行為後の夢中遊行症は殆ど右と同様のものなるべけれども
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