遊行の発作なる事を、最も簡単、且つ適切に首肯し得ると同時に、その他の犯人に関する推断が、強いて第三者を仮想せむと試みたるより生じたる一種の錯覚なる事をも、遺憾なく説明し得べし。すなわち呉一郎は前記の性的衝動を心理に包みて熟睡後、これに依りて刺戟誘発されたる心理遺伝の発作のために夢中遊行状態となりて起き上り、その意識裡に現われたる夢幻(その内容はこの時まで不明)の欲求に従って、眼に当りたる被害者の帯締めを拾い取りて、その夢幻の対象たる一女性……実は母親……に対する兇行を遂げ、尚《なお》後《のち》に述ぶるが如く学術上の珍とすべき奇怪なる夢中遊行の若干を続行したる後《のち》、就寝したるものと推測さる。而して右の兇行は、同人の脳髄の作用、即ち意識的精神作用が熟睡に依《よっ》て休止しおる間に於て、全身の細胞相互間の反射交感作用が、脳髄の代用となりて(主として交感、迷走神経と連絡せる内臓の諸機関がこの役をつとめ、筋肉、結締組織、脂肪、血液等もこれに参加して、事後に於ける異常の疲労状態を呈す――拙著『精神病理学』参照)五官と直接に連絡し、見、聞き、判断し、且つ実行せるものなるを以て、覚醒後の有我的意識には、殆ど何等の記憶の痕跡を留めず、この点を混同して、一切の判断力を要する行動を、有我的意識(脳髄の覚醒時に於ける意識作用)に依ってのみ行われ得るものと妄信せられたるがために、前記の如く、仮想の犯人を拈出《せんしゅつ》するが如き、推断上の錯誤を生じたるものにして、現代に於ける科学知識の発達程度に於ては、誠に止むを得ざるに出でたる帰結と云うを得べし。
因《ちな》みに、この事件に依って研究さるべき呉一郎の夢中遊行状態中、第二回の発作(後段参照)に依て演出さるべき、この事件の眼目たる心理遺伝の内容と直接の連絡関係を有せる発作は、この……絞首[#「絞首」に傍点]……の一事のみにして、爾後《じご》の夢中遊行は寧ろ脱線的のものと云うを得べし。然れども、その爾後の脱線的夢中遊行なるものの正体は、実に学界の珍とも称すべきものにして、精神科学上の研究価値甚だ高く、且つ此《かく》の如く親近なる参考事例を他に発見し得ざるを以て、聊《いささ》か脱線を共にするの嫌《きらい》あれども特にここに記述し、併せてこの事件の真相が、呉一郎の夢中遊行発作によって一貫せられおる事実を、徹底的に明白ならしめんと欲する所以《ゆえん》なり。
【五】 絞首に引続く第二段の夢中遊行……屍体飜弄……
被害者が、床上その他を輾転《てんてん》して苦悶したる痕跡及び絞殺の跡《あと》顕著なるにも拘《かかわ》らず、更にこれを縊死と見せかけたるは浅薄なる犯罪隠蔽行為なるが如くにして実は然らず……云々として、犯人たる仮想の第三者の智力の尋常ならざるを疑われたるは、一面の理由ある判断なるが如くなるも、これ亦、余りに穿《うが》ち過ぎたる不自然の観察なりと信ずるに躊躇せず。何となれば右の事象は又、偶々《たまたま》以て夢中遊行状態特有の怪異なる行動が当夜、同所に於て行われたる事跡を物語るものにして、著者の所謂《いわゆる》……屍体飜弄[#「屍体飜弄」に傍点]……が当夜の呉一郎に依って演ぜられたるものと認めて些《いささか》の不自然を感ぜざるのみならず、却《かえ》って右の事象に対する説明の簡単適切、疑うべからざるものあるを以てなり。
但し夢中遊行中の屍体飜弄[#「夢中遊行中の屍体飜弄」に傍点]なる現象に関しては古来、明確なる記録の憑拠《ひょうきょ》するに足るべきもの殆ど存在せず。唯、かかる超唯物科学的なる現象に対して深き興味を有する拉甸《ラテン》人種間に伝われる記録及び迷信深き東洋諸民族間に残存せる伝説等に散見するあるのみ。而してその記録なるものも所謂、実見記等の類に非《あら》ず。或る特異の頭脳を有する僧侶、医師等が他人より聞知し、又は探聞し得たる事を記載せる随筆程度のものに過ぎざるのみならず、その記事の十中八九は屍体を使用して人を脅威し、電力を与えて死者を動かし試み、死人を装《よそお》うて悪事を働らく等、その他、迷信的の薬物たる臓器の獲得、埋葬品の奪掠《だつりゃく》、屍姦《しかん》等の事跡の誤認、誤伝せられたるものなるを以て、容易に真相を捕捉し難き憾《うら》みあり。
然れども斯《か》かる屍体飜弄[#「屍体飜弄」に傍点]の事実の古来より存在せる事は疑《うたがい》を容れず。即ち支那、印度《インド》、日本等に於て屍神《ししん》、屍鬼《しき》、もしくは火車《かしゃ》等と称する妖異|譚《ものがたり》の内容を検する時は、この種の夢遊行為……すなわち屍体飜弄が誤伝せられたるものなる事を、自然科学、精神科学等の各方面より推知するを得べし。
而して斯《かか》る事実の詳細に関しては他日「妖怪篇」なる一篇に集積して研究論証す
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