けて、外より何者かが入り来りて、麻酔剤を施しつつ、この兇行を演じたりと速断するが如きは、非常なる冒険、且つ、不合理と評するも敢《あえ》て過言に非《あら》ざるべし。
 而《しか》して、右の支棒の脱落と思い誤られたる夢中の音響の正体に就《つい》ては、別に発表し得べき重要なる研究資料を有すれども、右は頗《すこぶ》る広汎なる実例と、極めて精密詳細なる心理学的の説明を要するを以て、ここには大略し、唯《ただ》「夢中に於て実在せざる音響を感ずる場合」のうち、睡眠自体を破る程に著しき実例の二三を挙げて参考とするに止《とど》むべし。

[#ここから2字下げ]
 (a)[#「(a)」は縦中横] 夢中に感ぜられつつある幻象の進行が、急に或る行詰まりを生じたる場合……たとえば、或る一種の感情(喜怒哀楽等)が急速に高潮して極点に達すると同時に、何物かの爆発、散乱、又は落下の光景を幻視せし瞬間……等……。
 (b)[#「(b)」は縦中横] 夢の進行が突然、或る無限の深さを有する空虚に陥りたる場合……たとえば、世界の涯《はて》より踏み外《はず》し、又は、闇黒の谷に墜落したる刹那《せつな》……等……。
 (c)[#「(c)」は縦中横] 夢中に進行しつつありし或る二つの心理現象が、突然に交叉し、又は衝突したる場合……たとえば、或る者を恐れつつ行いおりし秘密の仕事が、その恐れおりし或る者に発見されし刹那、又は、衝突を憂慮しつつありし汽船、又は自動車等が、果して急激に進路を曲げ来りて、眼前に衝突したる瞬間……等……。
 (d)[#「(d)」は縦中横] 夢の中に進行しつつありし事象が、全然予期せざる、正反対の心理の対象たるべく急変したる場合……たとえば、親友が兇漢なる事を発見し、又は、同伴者が急に恐ろしき者に変じ、或は又、快適なる室内の諸器物、楽しき花園の花等が、自己の最も恐怖|嫌忌《けんお》する形象物体等に変化したる刹那……等……。
[#ここで字下げ終わり]

 右に依って観察する時は、夢の中に感ぜられる、非実際的の音響の正体なるものは他に非《あら》ず。すなわち夢の進行中に於て[#「夢の進行中に於て」に傍点]、突然[#「突然」に傍点]、不可抗的に受けたる驚愕[#「不可抗的に受けたる驚愕」に傍点]、恐怖[#「恐怖」に傍点]、歓喜[#「歓喜」に傍点]、その他の心境の急変化と[#「その他の心境の急変化と」に傍点]、覚醒時に於て不意に大音響に打たれたる心理の急変化とが酷似[#「覚醒時に於て不意に大音響に打たれたる心理の急変化とが酷似」に傍点]せるがために、逆に錯覚されて一ツの音響と感ぜられたるものなる事を知るを得べし。
 更に右の事例に照して、この事件を考察する時は、呉一郎の第一回の覚醒なるものは、その直前に於て、同人の心理に高潮充満しおりたる、性的の衝動に依って描かれつつありし或る種の夢の進行が、これに依って刺戟喚起されたる良心的の衝動を象徴する或る幻像の出現と不可抗的に交叉衝突したる刹那の恐怖的心理状態が、音響的の錯覚を与えたるものに非ずやとも考えらる。而《しか》して、この仮定を認むる時は、その性的衝動の危機の裡《うち》に眼覚めたる呉一郎が、その母の寝顔を見て、異常の美を感じたりという事実は、極めて自然なる心理の帰趨《きすう》にして、特に、春季に於ける年少の童貞に有り勝ちの秘密的、心的経験に関する、純潔、偽らざる告白というを得べく、同時にその後の熟睡中に於て、同じ衝動によって刺戟誘発されたる夢中遊行の存在し得べき可能性は、一層、底強く裏書きせられ得るものと云うべし。
 尚又、支棒《つっかいぼう》が落ちたる事実は、本人が夢中遊行中の無意識的理智の発動に依って行いたる犯罪の隠蔽手段に非ざるなき乎《か》。兇行その他の不正行為を敢てする事多き夢中遊行者が、かかる行為を併せ行う例は、甚だ珍らしからず。しかも、その大部分は、この事例に於けるが如く、常に笑うべき浅薄なる手段なるに照しても、這般《しゃはん》の疑問が不自然に非ざるを知り得べし。又、或《あるい》は、外より何者かが入り来らむとしたる際、誤って支棒を落し、様子を覗いおるうち、呉一郎が降り来りたるを以て逃亡したる等の、偶然の事跡の暗合せるものに非ずやとも考え得べし。然れども這般の疑点に就《つ》[#ルビの「つ」は底本では「つい」]いては調査が欠如しおるが如くなるを以て姑《しばら》く疑問として保留しおくべし。

  【四】 夢遊状態発作当初の行動……絞殺……

 この事件の根本的説明となるべき兇行の目的が、今日に到るまで茫乎《ぼうこ》として、推理の範囲外にある事実と同時に「つくし女塾内には呉一郎|母子《おやこ》と、女塾生に関する以外の事跡を認めず」云々というW氏の調査諸項を併せ考うる時は、この事件の真相が呉一郎のその母に対する夢中
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