項を列挙すれば左の如し。
[#ここで字下げ終わり]

  【一】 呉一郎の性格と性的生活

 呉一郎は当時満十六年四ヶ月の少年なるが、此《かく》の如き母性愛を主とせる家庭に人となり、且つ平生若き女性に接する機会を有する文弱明敏、且つ発育円満なる少年に有り勝ちの特徴として事件発生前より、既に十分の性的充実を来《きた》しおりたるも、その母性愛の純美さと、自己の頭脳の明晰さとに品性を浄化されて、これを肉体的に発露し得るが如き心理の欠陥を有せず、無垢《むく》の童貞を保ちおりたるものと認めらる。異性の唱歌を傾聴したる旨を告白し且つ赤面せるが如きは、かかる性格を有する斯《かか》る時代の少年の特徴と認むるを得べく、又、談話中の到る処に発見さるる可憐なる率直さ、及び自身が犯人として眼指《めざ》さるるべき理由の動かすべからざるものあるを自覚しつつも、自己の立場に対する何等の恐怖を感ぜざりし事実等より推して、その心理に微小の暗影をも止《とど》めざる、清浄純真の童貞生活を送り来《きた》りし者なる事を察知し得べし。而《しか》して右年齢と性的生活の推定は、この事件に関する精神科学的観察の全部に影響する、重要なる断定の基礎となるべきものなるを以て、特に冒頭に掲げて、注意を促す所以《ゆえん》なり。

  【二】 夢遊状態を誘発せし暗示

 事件発生の当夜、午前一時前後に覚醒して、母の寝顔を見たる時、異常の美しさを感じたりという呉一郎の告白は、前記の観察の妥当なる事を裏書せると同時に、同夜に於ける呉一郎の心理遺伝の発作、即ち夢遊状態発生の暗示[#「暗示」に傍点]が如何なる性質のものなりしかを説明しおるものと認め得べし。即ち、夜半の覚醒が、性的の衝動の高潮と切実なる関係を有せる事実に徴《ちょう》する時は、当時の呉一郎の精神状態は、或る危機の最高潮に瀕《ひん》しおりたるものなる事、前記の告白によって明かなるべし。而《しか》してその危機は、同人が一度階下に降りて用便し、再び二階に昇り来《きた》りたる間に著しく緩和されたる筈なり。且つ、その刺戟の対象たる母親千世子が、後《うしろ》向きになりたる姿を見たるがために、些《すく》なからず幻滅されて、平生の埋智に帰りて就寝したるものなる事も亦《また》察するに難《かた》からず。然れども此《かく》の如くにして一時抑圧されたる性的の衝動は、呉一郎が熟睡に陥るや、その無意識界に潜在せる、或る恐るべき心理遺伝を刺戟して、夢中遊行状態を誘発し(後出第二回の発作の項参照)、遂《つい》に斯《か》かる兇行を演ぜしめたるものなる事を、以下|縷述《るじゅつ》するところの各項の理由に照して、逐次了解するを得《う》べし。

  【三】 呉一郎の第一回覚醒と夢中遊行との関係

 呉一郎が、同夜に限りて夜半の覚醒を見たるは、同人が従来あまり経験したる事なき異状なる出来事なる旨陳述せるが、右は又、適々《たまたま》以て、その後の睡眠間に於ける夢遊状態の存在を指示しおれる一徴候と認め得べき理由あり。然れども、この理由を明かにする以前に於て、必然的に考慮せられざるべからざる一事は、勝手口の支棒《つっかいぼう》の落ちたる音が、呉一郎の第一回の覚醒の原因となりおれる如く思惟されおることなり。右は呉一郎本人も、然《し》かく信じおれるが如くなるも、這《こ》は睡眠中の感覚作用と、覚醒時の知覚作用とを同一視せるより出でたる誤解にして、甚だ軽率なる判断なりと認むるに躊躇《ちゅうちょ》せず。何となれば睡眠中に或る音響を耳にして、直ちに覚醒したりと信じたるものが、覚醒後の正確なる判断力に依ってこれを検する時は、その間《かん》に数分、甚だしきに到っては一二時間の睡眠を経過せる事を発見する例、些《すく》なからず。その最極端なる一例は、所謂《いわゆる》、朝寝坊が起さるる時にして、数回に亘る呼び声に応答しつつ、又も熟睡に陥り、日|三竿《さんかん》に及びて蹶起《けっき》して、今日は唯一回の呼声にて覚醒したりなぞ主張する事珍らしからざるは、世人の周知せる事例なり。睡眠中に感じたる音響と、これに依って刺戟されたる覚醒との間に於ける、経過時間に対する錯誤の如何に甚だしきかは、この一事を以てしても充分に立証し得べし。況《いわ》んや、夢中に於て、明かに物音を知覚して覚醒したるにも拘らず、その後の冷静なる検査に依りて何事もなかりしを知る場合極めて多きに於てをや。これに依ってこれを観《み》れば、支棒《つっかいぼう》の落ちたる音と、呉一郎の覚醒との間に必然的の因果関係を認むるは、正確なる推理の進行上|頗《すこぶ》る危険なる所業にして、寧《むし》ろ、右二ツの現象を全然無関係のものとして、この事件を観察する方、自然に近きものと言うを得べし。況《いわ》んや更に、これを呉一郎の覚醒後の異常なる気持ちと直接に結び付
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