き肉《み》かなぞのように活《い》き活きとした薔薇色に盛り上って、煌々《こうこう》たる光明の下に、夢うつつの心を仄《ほの》めかしております。
 ……冷たい……物々しい、九大法医学部屍体解剖室の大理石盤の上に、又と再び見出されないであろう絶世の美少女の麻酔姿……地上の何者をも平伏《ひれふ》さしてしまうであろう、その清らかな胸に波打つふくよかな呼吸……。
 その呼吸の香《か》に酔わされたかのように若林博士はヒョロヒョロと立直りました。そうして少女の呼吸に共鳴するような弱々しい喘《あえ》ぎを、黒い肩の上で波打たせ初めたと思うと、上半身をソロソロと前に傾けつつ、力無くわななく指先で、その顔の黒い蔽《おお》いを額の上にマクリ上げました。
 ……おお……その表情の物凄さ……。
 白熱光下に現われたその長大な顔面は、解剖台上の少女とは正反対に、死人のように疲れ弛《ゆる》んだまま青白い汗に濡れクタレております。その眼には極度の衰弱と、極度の興奮とが、熱病患者のソレの如く血走り輝やいております。その唇には普通人に見る事の出来ない緋色《ひいろ》が、病的に干乾《ひから》び付いております。そうした表情が黒い髪毛《かみのけ》を額に粘り付かせたまま、コメカミをヒクヒクと波打たせつつ、黒装束の中から見下している……。
 彼はこうして暫くの間、動きませんでした。何を考えているのか……何をしようとしているのか解らないまま……。
 ……と見る中《うち》に突然に、彼の右の眼の下が、深い皺を刻んで痙攣《ひっつ》り始めました……と思う間もなく顔面全体に、その痙攣《けいれん》の波動がヒクヒクと拡大して行きました。泣いているのか、笑っているのか判然《わか》らないまま……洋紙のように蒼褪《あおざ》めた顔色の中で、左右の赤い眼が代る代る開いたり閉じたりし初めました。何事かを喜ぶように……緋色に乾いた唇が狼のようにガックリと開いて、白茶気た舌がその中からダラリと垂れました。何者かを嘲《あざ》けるように……それは平生の謹厳な、紳士的な若林博士を知っている者が、夢にだも想像し得ないであろう別人の顔……否……彼がタッタ一人で居る時に限って現われる悪魔の形相……。
 けれどもその中《うち》に彼はソロソロと顔を上げて参りました。いつの間にか乾いている額の乱髪を、両手で押上げつつ、青白い瞳をあげて、頭の上に輝く四個の電球を睨み詰ました。
 その呼吸が又も次第次第に高く喘ぎ初めました。その頬に一種異様の赤味がホノボノとさし初めました。空中の或者と物語っているかのように眼を細くして、腹の底から低い気味の悪い音を立てつつ切れ切れに、
「……アハ……アハ……アハアハ……」
 と笑っておりましたが、やがてその唇を凝《じっ》と噛んで、美少女の寝顔を見下しますと、ワナワナと震える指をさし上げて、頭の上の電燈のスイッチを一ツ……二ツ……三ツ……と切って、最後に四ツ目をパッと消してしまいました。
 しかし室内はモトの闇黒《あんこく》には帰りませんでした。閉じられた窓の鎧扉《ブラインド》の僅かの隙間《すきま》から暁の色が白々と流れ込んで、室《へや》の中のすべての物を、海底のように青々と透きとおらせております。
 ……茫然と、その光りを見つめておりました彼は、やがてその両手の指をわななかせつつ、ピッタリと顔に押当てました。ヨロヨロと背後《うしろ》によろめいて壁に行き当りました。そのままズルズルと床の上に座り込みますと、失神したように両手を床の上に落して、両脚を投出して、グッタリと項垂《うなだ》れてしまいました。
 その時に解剖台上の少女の唇が、微かにムズムズと動き出しました。ほのかな……夢のような声を洩らしました。
「……お兄さま……どこに……」……【溶暗[#「溶暗」は太字]】……

 【字幕[#「字幕」は太字]】 正木若林両博士の会見。
 【説明[#「説明」は太字]】 次に映写し出されましたるは、九州帝国大学精神病学教室本館階上、教授室に於ける正木博士の居睡《いねむ》り姿で御座います。時は大正十五年の五月二日……すなわち前回の映画にあらわしました若林博士の屍体スリ換えの場面が、正木博士の天然色浮出発声映画カメラ[#「天然色浮出発声映画カメラ」に傍点]のフィルムに収められましてから丁度一週間目の、お天気のいい午後の事で御座います。教授室の三方の窓には強い日光を受けた松の緑が眩《まぶ》しく波打っておりまして、早くも暑苦しい松蝉《まつぜみ》の声さえ聞えて来るのでありますが、南側に並んだ窓の一つ一つには、胡粉絵《ごふんえ》の色をした五月晴《さつきば》れの空が横たわって、その下を吹く明るい風が、目下工事中の解放治療場の作業の音を、次から次に吹込んで参ります。
 正面の大|卓子《テーブル》と、大暖炉との中間に在る、巨大《お
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