うちに遺骨を受取りに来るように通知が出されるのでありますが、実は、解剖が済みますと直ぐに、裏手の松原に在る当大学専用の火葬場の人夫が受取って行って、立会人も何も無いままに荼毘《だび》に附して、灰のようになった骨と、保存してあった遺髪だけを受取りに来た者に引渡す……という、一般の火葬の場合とは全然違った、信用一点張りの制度になっておりますので、屍体の替玉に気付かれる心配は万に一つもないといってよろしい。尤《もっと》も、その火葬以前にやって来て、今一度、死人の顔を見せてくれと要求するような、取乱した親達がないという断言は出来ないのでありますが、仮令《たとい》そのような場合があるにしても、彼《か》のメチャメチャに縫い潰した顔を見せたら、二《ふ》タ目と見得る肉親の者はまずありますまい。
 但、唯一つここに懸念されるのは、その筋の係官や、関係医師なぞが、今一度、念のために検分に来る場合でありますが、これ程に二重三重の念を入れて、巧妙、精緻な手を入れた換玉《かえだま》である事を、どうして見破り得ましょう。いずれに致しましてもその人格に於て、又はその名声に於て、天下に嘖々《さくさく》たる若林博士が、九大医学部長の職権を利用しつつ、念を入れ過ぎる位に念を入れて仕上げた仕事ですから誰が疑点を挿《はさ》み得ましょう。どこに手ぬかりがありましょう……九大、屍体冷蔵室の屍体紛失事件が、若林博士以外にはタッタ一人しか居ない係りの医員に、不審の頭を傾けさしたまま、永久の闇から闇に葬られて行く時分には、行衛不明になった少女の虐殺屍体は既に、一片の白骨となって、立派な墓の下に葬られて、香華《こうげ》を手向《たむ》けられている訳であります。
 同時に現在、気息を恢復しつつある解剖台上の少女……呉モヨ子と名付くる美少女は、戸籍面から抹殺された、生きた亡者となって、あの蒼白長大な若林博士の手中に握り込まれつつ、呼吸する事になるので御座いますが、しかし、それが後《のち》になって何の役に立つのか、若林博士は何の目的でこの少女を、生きた亡者にして終《しま》ったのか。……その説明は後《のち》のお楽しみ……と申上げたいのですが、実はこの時までは天井裏から覗いておりました正木博士にもサッパリ見当が附《つい》ておりませんでしたので……恐らく諸君とても御同様であろうと思います……が……。
 ……しかし同時に、新聞紙上で、迷宮破りとまで称讃されている絶代のモノスゴイ頭脳の持主、若林鏡太郎博士が、かほどの惨憺たる苦心と、超常識的なトリックを用いて挑戦しつつある事件の内容……もしくはその犯人の頭脳が、如何に怪奇と不可解を極めた、凄絶なものであろうか……という事実に就いては最早《もはや》、十分十二分の御期待が出来ている事と存じます。しかも、この御期待に背《そむ》かない事件の驚くべき内容と、その過程の具体的なものが、順序を逐《お》うて諸君の眼前に展開して参りますのは、最早、程もない事と思われますので……。
 すなわち御覧の通り、事件は最早、既に、九大法医学部、解剖室内の黒怪人物、若林博士の手に落ちているので御座います。そうして同博士は今や、一代の智脳と精力を傾注しつつ、その怪事件を捲起した裏面の怪人物に対する、戦闘準備を整えているところですから……。

 却説《さて》……斯様にして屍体台帳の書換えを終りました若林博士は、その台帳を無記入《ブランク》の屍体検案書と一緒に、無雑作に机の上に投出しました。疲れ切った身体《からだ》を起して室内に散らばっているガーゼ、スポンジ、脱脂綿なぞを一つ残らず拾い集めて、文房具、化粧品等と一緒に新しい晒布《さらし》に包み込んで、繃帯で厳重に括《くく》り上げてしまいました。多分、どこかへ人知れず投棄して、出来る限り今夜の仕事を秘密にする計劃で御座いましょう。四一四号の屍体の各局部の標本を取らなかったのも、そうした考えからではなかったかと考えられます。
 こうした仕事を終りまして今一度そこいらを念入りに見廻しました若林博士は、やがて傍《かたわら》の机の上に置いた新しい看護婦服と白木綿の着物を取上げて、まだ麻酔から醒ずにいる少女に着せるべく、解剖台に近づきました……が……若林博士は思わず立止まりました。手に持っている物を取落して背後《うしろ》によろめきそうになりました。
 今更に眼を瞠《みは》らせる少女の全身の美しさ……否、最前の仮死体でいた時とは全然《まるで》違った清らかな生命《いのち》の光りが、その一呼吸|毎《ごと》に全身に輝き満ちて来るかと思われるくらい……その頬は……唇は……かぐわしい花弁《はなびら》の如く……又は甘やかなジェリーのように、あたたかい血の色に蘇《よみがえ》っております。中にもその愛《め》ずらかな恰好の乳房は、神秘の国に生れた大きな貝の剥《む》
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