の少女の虐殺屍体を、隅から隅まで叮嚀に洗い浄《きよ》めましたが、次いでその皮膚の全面を、ガーゼと脱脂綿とでスッカリ拭い乾かしますと、その貧しい赤茶色の髪の毛を真二つに引分けて、傍《かたわら》に光り並んでいるメスの一つを取上ると見る間に、屍体の眉間《みけん》の処をブスリと一突き……それから次第に後頭部に到る頭の皮を、一直線にキリキリと截《き》り開いて行きました。
 ところで多少共にこの方面に関する知識を持っていられる方は、定めしここで「オヤ」と思われる事と存じます。若林博士のこうしたやり方は、普通の場合に於ける屍体解剖の手順になっております胸部、腹部から頭部、次に背部という順序を無視して、頭部から初めている事になりますから……。
 そもそも古今の名法医学者若林博士は、何の目的の下に、このような勝手気儘な順序を以てメスを揮《ふる》いはじめたのか……と疑う間もなく四一四号の少女の頭の皮は巧《たくみ》にクルリと裏返しにされまして、髪毛《かみのけ》と一緒に靴下を脱ぐように両眼の下まで引卸されました。次に、その下から現われました白い坊主頭を、鋸《のこぎり》で鉢巻形に引切りました若林博士は、その下から現われた脳髄を、器用な手附で鋏を使いながら硝子《ガラス》の皿の上に取出しますと、そこで同博士一流の念入りな調査をこころみるか、それとも標本にして取っておくのか……と思われましたが、これが又案に相違して、まるでビフテキかオムレツでも取扱うような無関心さで、皿の中の脳髄をクルリと宙返りさせますと、そのまま旧《もと》の空洞に納めまして、頭蓋骨を冠せて、皮と髪毛をクルリと蔽《おお》うて、針と糸を迅速に捌《さば》き働かせつつ、粗《あら》っぽく縫い合せてしまいました。
 ……これは意外である。一種の狼藉《ろうぜき》とも見るべき所業である。厳格方正を以て聞えた若林博士は、何故《なにゆえ》に今夜に限って、斯様《かよう》な不誠意を極めた屍体解剖を試みるのであろうか……と疑いの眼を瞠《みは》っているうちに、屍体は間もなく……ゴロリと俯向けに引っくり返されました……と見ると、疵《きず》だらけの背筋の中央、脊椎の左右の筋肉が円刃刀《メス》でもってゴリゴリと切り開かれました。そこから二股《ふたまた》の鋸を突込んで、左右の肋骨《ろっこつ》を切り除《の》けた若林博士は、取出した背骨を縦に真二つに切り開いただけで、ロクに検査もせずに、もとの処に当てがいまして、太い針でブスブスと縫い合せてしまいました。その一気呵成《いっきかせい》的なゾンザイサというものは、やはり前とおんなじ事なので……。
 次に若林博士は今一度、屍体をあお向けにして、汚れた処をザッと洗い浄めてから、腹部の皮の厚さを押えこころみている……と思ううちに、新しいメスをキラリと取上げて、咽頭《いんとう》の処をブスリと一突き……乳の間から鳩尾《みぞおち》腹部へと截り進んで、臍《へそ》の処を左へ半廻転……恥骨《ちこつ》の処まで一息に截り下げて参りますと、まず胸の軟骨を離して胸骨を取除《とりの》け、両手を敏活に働らかせつつ、胸壁から下へ腹壁まで開いて参りましたが、只一刀で腹壁、腹膜が同時に、切開かれておりまして、内臓には一点の疵《きず》も附いていない。……五臓六腑の配置が歴々整然として、蒼白い光りに輝き濡れている光景は、気味悪いと申しましょうか、物凄いと形容致しましょうか……その肺臓の一面にあらわれている黒い汚染《しみ》は、この少女が炭坑労働に従事しておった事をあらわし、その致死の直接原因と見られる肝臓の破裂と内出血は、この少女に加えられた虐待、もしくは迫害が、如何に激烈であったかを証明しているのでありますが、しかし若林博士は相も変らず、そんな事には眼もくれませぬ。ただ、それ等の内臓の一つ一つを手当り次第に廻転さしたり、掻き乱したりしただけで、その最後に胃袋と、大小腸と、膀胱《ぼうこう》とを、ほんの形式だけ截り破るなぞ、あらゆる検査の真似型だけを終りますと、普通の解剖のように、各臓器の一部|宛《ずつ》を標本に取るような事もせずに、又も、太い針と麻糸を取り上げまして、下腹部から順次に咽頭部まで縫い上げて行きました……が……その間に於ける刀《メス》の揮《ふる》い方の思い切って残忍痛烈なこと……その針と、糸の使い方の驚くべき巧妙迅速を極めていること……そうしてその手付きや態度にあらわれて来る、たまらないほど辛辣な満足のわななき……それはこうした仕事によって、或る深刻痛烈な慾望を満足させつつある、精神異常者そのままの表現ではないかと疑われるくらい……。
 先刻から、かような一挙一動を、詳しく見ておいでになりました諸君は、もはやハッキリとお気付きになっているで御座いましょう。今や若林博士の態度は、その平生の冷静、荘重な物腰を全然|喪
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