ので、誰一人として怪しむ者はありませぬ。況《ま》して堂々たる大学の医学部長が、自分の責任管理に属する屍体をコッソリ盗んで行く……という前代未聞の怪事実を吠え立てていようなぞと、誰が思い及びましょう。九州帝国大学構内を包む春の夜の闇は、すさまじい動物どもの絶叫、悲鳴の裡《うち》に、いよいよ闃寂《げきじゃく》として更《ふ》け渡って行くばかりで御座います。
 やがてその声が次第に遠ざかって、ピッタリと静まったと思う間もなく、又もパッパッと四個の二百燭光の電燈が点《つ》きますと、場面は以前の法医学の解剖台の処に立ち帰ります。
 みると四百十四号の少女の強直屍体は、もうコンクリートの床の上に横たわっておりますが、一方に入口の扉を以前《もと》の通りに厳重に鎖《とざ》し終った若林博士は、解剖台の前に突立ったまま、黒い覆面の上から汗を押え押え息を切らしております。

 大正十五年四月二十七日夜の、九大法医学部、解剖室には、かくして二個の少女の肉体が並べられた事になります。美しく蘇《よみがえ》りかけている少女と、醜くく強直している少女と……中にも解剖台上に紅友禅《べにゆうぜん》を引きはえました少女の肉体は、ほんの暫くの間に著しく血色を回復しておりまして、麻酔をかけられたままに細々と呼吸しはじめている、そのふくよかな胸の高低が見える位になっております。その異常な平和さ、なまめかしさ……台の下の醜い少女の顔と相対照しておりますせいか、その美しさは一層美しく、ほとんど気味の悪いくらい、あでやかに感じられるようであります。
 その脈搏を取り上げた若林博士は、時計のセコンドと睨み合せつつ、麻酔の効果を検診し初めました。その真黒い博士の姿が、心持ち頭を傾けたまま、石像のように動かなくなりますと、それに連れてこの室内の空虚が、ソックリこのまま、地下千尺の処に在る墓穴のような、云い知れぬ静寂に満たされてまいります。
 そのうちに脈を取っていた少女の手を投げ出して、時計をポケットに納めました若林博士は、その少女の身体《からだ》をそっと抱え上げて、部屋の隅に横たえてある寝棺の蓋の上に寝かしました。そうしてその代りに四一四号の少女の強直屍体を解剖台の上に抱え上げて、凹字《おうじ》型の古びた木枕を頭部に当てがいますと、大きな銀色の鋏《はさみ》を取上げて、全身を巻立てている繃帯をブツブツと截《き》り開く片端《かたはし》から、取除いて行きましたが……御覧なさい……その蒼黒い少女の皮膚の背中から胸へ、胸から股へと、縦横にタタキ付けられている大小長短色々の疵痕《きずあと》を……殴打、烙傷《らくしょう》、擦傷《さっしょう》の痕跡を……それらの褐色、黒色、暗紫色の直線、曲線は腰部にあらわれている著明な死斑と共に、煌々《こうこう》たる白光下に照し出されると同時に、そのままの色と形の蛇や、蜥蜴《とかげ》や、蟇《がま》となって、今にも彼女の皮肌の上を匐《は》いまわり初めるかと疑われるくらい……。
 御承知の御方も御座いましょうが、全国の各大学や、専門学校の研究用の解剖屍体には、こうした種類の屍体がよく持込まれるので御座います。殊に、この九大に収容されるのは、同地方に多い炭鉱や紡績、その他の工場、又は魔窟なぞへ誘拐虐待されたもの、又は自殺者、行路病者なぞの各種類に亘っておりまして、中には引取人のないのも珍しくありませぬが、九大側では、そんなのを片《かた》っ端《ぱし》から研究材料にして切り散らしたあげく、大学附属の火葬場で焼いて骨《こつ》にして、五円の香典を添えて遺族に引渡す。又、引取人のないものは共同墓地へ埋めて、年に一度の供養法会《くようほうえ》を執行《とりおこな》う事になっておりますので、この屍体も、そうした種類の一つと考えられるのであります。
 こう申しますうちに、屍体の全身を手早く検査し終りました若林博士は、今一度ホーッとばかり、喘《あえ》ぐように溜息しつつ、覆面ごしに顔の汗を押えておりましたが、やがて部屋の隅の洗面器の処に近付いて、水道栓から直接にゴクゴクと水を飲んでは噎《む》せかえり、呼吸を落付けては水を飲んで、暫くの間は息も絶え絶えに咳入《せきい》っております。永年の肺病に囚《とら》われて、衰弱に衰弱を重ねております同博士にとりまして、これだけの労作《はたらき》は、如何ばかりか辛《つら》く、骨身にこたえた事でしょう。
 けれども同博士の怪《かい》より出でて怪に入る仕事は、まだ半分も進行していないので御座います。
 程もなく洗面器の処から引返しました若林博士は、まず屍体の足の処にボール鉢を置いて、そこに取付けてあります水道栓のホースを突込んで、屍体の脚部から背中へかけた解剖台面に水を放流し初めました。次いで今一つのボール鉢に湯を取りまして、スポンジと石鹸を使いながら、解剖台上
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