。それをまだお白粉の残っている少女の鼻の処へ、ソロソロと近付けつつ、左手で静《しずか》に脈を取っているので御座います。申すまでもなく、これは麻酔剤を嗅《かが》しているので……あまり早く少女が覚醒しては困る事があると見えます。しかしこの少女を麻酔さしておいて、どうするつもりか……というような事は、やはり只今のところでは判明致しませぬので、そうした若林博士の行動ばかりが、愈々《いよいよ》出《い》でて、いよいよ奇怪に見えて来るばかり……。
……と思う中《うち》に、麻酔剤を嗅《か》がせ終りました若林博士は、はだけたままの少女の胸を掻き合せますと、今度はツカツカと正面の薬棚に近づいてその片隅に突込んである美濃型、日本|綴《つづり》の帳面を一冊取り出しました。その表紙には「屍体台帳……九大医学部」と大字で楷書してありまして、その表紙を開くと、各|頁《ページ》ごとに「屍体番号」「受取年月日」「引取人住所氏名」「引渡年月日」なぞいうものが、一面に行列を立てて書込んである上と下に、一々若林という検印が捺《お》してあります。……ところでその帳面の半分に近い、書込みの残っている頁まで、バラバラと繰って参りました若林博士は、やがて最終から二番目の屍体番号「四一四」、容器番号「七」と書いたのを指で押えますと、そのまま帳面を傍の机の上に投げ出しまして、長々とした手をさし伸しながら、頭の上の二百燭光のスイッチを四個とも切ってしまいました。
室内は、もとの通りの闇黒状態に立ち帰ったので御座います。
しかも、このフィルムの闇黒状態は、ソックリこのまま、他の部屋の闇黒状態に入れ変って行くので御座いますが、果して、どのような意味の闇黒がフィルムの前途に待ち構えているで御座いましょうか……【暗転[#「暗転」は太字]】
……闇黒のフィルムが依然として諸君の眼の前に連続して行きます……十尺……十五尺……三十尺……五十尺……諸君の眼の前に凝《こ》り固まって行く闇黒の核心に、やがて黄色い、小さい、薄汚れた電球が灯《とも》りました。御覧の通り、どこかの鍵穴から覗いた陰気な室内の光景が現われました。
……ナント諸君……このような部屋を御覧になった事がありますか。
右手に見えております混凝土《コンクリート》の暗い階段は、この部屋が地下室である事を示しておりますので、正面に並んだ白ペンキ塗の十数個の大きな抽斗《ひきだし》は、皆、屍体の容器なので御座います。すなわちこの部屋は、九大医学部長の責任管理の下にある屍体冷蔵室で、真夏の日中と雖《いえど》も、肌膚《はだえ》が粟立つばかりの低温を保っているのでありますが、殊に只今は深夜の事とて、その気味の悪い静けさは、死人の呼吸も聞えるかと疑われるくらい……。
ここに姿を現わしました当の責任者、医学部長、若林博士が扮しました黒怪人物は、室内の冷気に打たれたものと見えまして、暫くの間、絶え入るばかりに苦しい咳《せき》を続けておりますが、そのうちにようようの事で、それを押し鎮《しず》めますと、ポケットから合鍵を取出して「七」と番号を打った屍体容器に取付けてある堅固な南京錠を取除きました。それから車仕掛になった頑丈な容器をゴロゴロと、有り合う台の上に引出しましたが、一息吐く間《ま》もなく、やおら上半身を傾けまして、全身を繃帯で棒のように巻き立てられた少女の強直屍体を、ズルズルと床の上に抱え下しました。見るとその強直屍体は、最前の仮死体の少女とは似ても似つかぬ色の黒い、醜い顔立ちではありますけれども、年恰好や背丈け、肉付き、又は生え際の具合なぞは、どうやら似通っているようで御座います。
若林博士は前からこの屍体に眼星をつけていたものらしく、よく検《あらた》めもせず、又は、少しの躊躇も見せずに、容器をピッタリと元に復《かえ》して、南京錠を引っかけますと、その屍体を材木か何ぞのように担ぎ上げて、一歩一歩とコンクリートの階段を昇り詰めながら、片手で壁際のスイッチを切って、地下室の電燈を消してしまいました。【暗転[#「暗転」は太字]】
ここで又、暫くの間、闇黒の場面が続くので御座いますが、しかし……お聞き下さい。あの夥しい犬の吠え声を……。
あれは今の屍体冷蔵室と、法医学教室の裏手に連なる松原の闇黒《くらやみ》伝いに、人眼を避けつつ屍体を担いで行く、若林博士の異様な姿を、その松原の附近に設けられている実験用の動物の檻の中から、野犬の群が発見して、吠え立てているところであります。それに魘《おび》えて狂いまわる猿輩《さるども》の裂帛《れっぱく》の叫び……呑気な羊や、鶏《とり》の類までも眼を醒して、声を限りに啼き立て、喚《わ》めき立てている。その闇黒の騒がしさ……モノスゴサ……。けれども斯様な動物どもが騒ぎまわる事は、殆ど毎晩といっても宜しい
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