って喰うという魔性の者のような物々しさ……又は籔《やぶ》の中に潜んでいる黒蝶の仔虫《さなぎ》を何万倍かに拡大したような無気味さ……のみならず、あんなに高い処に在る電球のスイッチを、楽々と手を伸して捻《ねじ》って行った、その素晴しい背丈《せい》の高さ……。こう申しましたならば諸君はお察しになりましたでしょう。この怪人物こそは、彼《か》の有名な「血液に依る親子の鑑別法[#「血液に依る親子の鑑別法」に傍点]」の世界最初の発見者であると同時に、現在『精神科学応用の犯罪と[#「精神科学応用の犯罪と」に傍点]、その証跡[#「その証跡」に傍点]』と題しまする、空前の名著を起草しつつある現代法医学界の第一人者、若林鏡太郎氏その人であります。
その名法医学者、若林鏡太郎氏は、只今申しました呉一郎少年の心理遺伝を中心とする精神科学界空前の大犯罪事件が勃発後、約二十時間を経過致しましたこの深更《しんこう》になりますと、何等かの仕事をすべく、コッソリとこの解剖室に這入りまして、斯様《かよう》に物々しい準備を整えたまま、時計の針が十一時……宿直の医員や、当番の小使が寝静まる時刻を指すのを、今や遅しと待っていた者である事が、現在の状況に依って、お察し出来る事と思いますが……サテ斯様に電燈を点《つ》けてみますと……ナント諸君。ここに又一つ奇妙な事実があらわれているのに、お気付きになりませんか。
この部屋の内部の状況は、御覧になりまする通り初めてのお方にとっては、何一つとして奇怪でないものはない。無気味でないものはない……と思われるので御座いますが、それでも今まで御覧になりましたところによって、「若林博士は何かしら解剖台に向って仕事を始めようとしているのだナ」とか「その仕事の材料になる屍体は、多分あの寝棺の中に納まっているのだナ」というぐらいの事は、もはや十分に御推察になっている事と思います。
しかし……もし左様《さよう》と致しますれば、その若林博士の助手となるべき人間が、この部屋の中に一人も見当らないのは、どうした事で御座いましょうか。斯様《かよう》な屍体の解剖には、大抵の場合何等かの意味で、一人か二人の人間が立会っている事は、殆ど原則ともいうべき通例となっているのでありますが……にも拘わらず、御覧の通り若林博士は、そのような人間を一人も室内に近づけていないところを見ますると、何故《なにゆえ》か判明《わか》りませぬが若林博士は、今夜に限ってタッタ一人で、或る重大な、極めて秘密の仕事を決行せねばならぬ必要に迫られているのではありますまいか……否……解剖台の前後に在る二つの扉の双方ともに、鍵を挿し放しにしている事実に照しますと無論そうでなければならぬ。普通の事件で持ち込まれた屍体の解剖や検案なぞとは違った、非常的な秘密事項が今夜の仕事に含まれているに相違ない……という事が、明らかに推測されるで御座いましょう。
……と思ううちに、部屋の隅の洗面器の処へ行って、手袋を穿《は》めたままの両手を念入りに洗って参りました若林博士は、やおら身を屈《かが》めまして、寝棺の白い覆布《おおい》を取り除《の》けて、これとてもこのような室には滅多に見受けられぬ、分厚い白木の棺の蓋を開きますと、中から一個の盛装した少女の屍体を取り出しました。
前からの説明を御記憶の諸君には、最早《もはや》、この少女が何者であるかという、あらかたの御推察が付いている事と存じます。
この少女こそは、前回に御紹介致しました本事件の主人公、呉一郎の花嫁となって、華燭《かしょく》の典《てん》を挙げるばかりに相成っておりましたその少女で、名前を呉《くれ》モヨ子と申します。当年取って十七歳に相成りまする絶世の美少女で御座います。その許嫁《いいなずけ》になっておりまする呉一郎……|K《ケー》・|C《シー》・|MASARKEY《マサーキー》会社の超特作は、超時代的、超常識的、精神科学映画『狂人解放治療』の主人公たる無双の美少年俳優の相手役となりまして、互いに、あらゆる精神科学的の妖美と、戦慄とを描き出すべきそのエース花形女優は、かくして取りあえず、寝棺の中の屍体の姿となって、諸君にお目見得をする次第で御座います。
当年流行の新月色に、眼も眩《まば》ゆい春霞と、五葉の松の刺繍を浮き出させた裲襠《うちかけ》。紫地、羽二重《はぶたえ》の千羽鶴、裾模様の振袖三枚|襲《がさ》ねの、まだシツケの掛かっているのを逆さに着せて、金銀の地紙を織出した糸錦の、これも仕立卸《したておろ》しと見える丸帯でグルグルグルと棒巻にしたまま、白木の寝棺に納めてある……その異様な美しさ、痛々しさ。この事件の並々ならぬ内容が窺われますばかりでなく、そうした死骸を、こうして棺に納めた人々の思いまでも察せられまして、そぞろに胸が塞《ふさ》がる
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