、何という醜体《しゅうたい》であろう……と諸君は定めし不審に思われるで御座いましょうが、この説明は後《のち》になってから自然とおわかりになる事と存じますから、ここには略さして頂きます。
 ……時は大正十五年四月二十六日の午後十時前後……呉一郎の心理遺伝を中心とする怪事件が勃発致しましてから約二十時間後の光景……フィルムは依然として真黒なまま、秘やかに辷《すべ》っております。五百尺……八百尺……一千尺……一千五百尺……画面の静けさと闇黒さとは以前の通りで、ただあの汚物の燐光が、次第に青白く、明瞭の度を加えて来るばかりであります。折りしもあれ、この教室を包む一棟の中《うち》の、遥かに遠くの小使室で打ち出す時計の音が、陰《いん》に籠《こも》って……一ツ……二ツ……三ツ……ボ――ン……ボ――ン……ボ――ン……ボ――ン……ボ――ンボ――ンボ――ンボ――ン…………ボオ――オオ――ンン……。
 ……十一時を打ち終りますと同時に、眼の前の闇黒の中で、何かしら分厚い、大きな木の箱を閉したような音がバッタリと致しますと、間もなくパアッと大光明がさして、眼も眩《くら》むほどギラギラと輝やくものが、そこいら中一面にユラメキ現われました。それは御覧の通り、部屋の中央に近く、四ツほど吊されております二百|燭光《しょっこう》の電球のスイッチが、最前からこの部屋の中に息を殺していたらしい人間の手で、次から次に捻《ひね》られたからで御座います……が、よく眼を止めて見ますと……。
 ……おお……その室内の光景の如何に物々しい事よ……。
 まず第一に視神経を吸い寄せられまするのは、部屋の中央を楕円形に区切って、気味の悪い野白色《のはくしょく》の光りを放っている解剖台で御座います。この解剖台は元来、美事な白大理石で出来ているので御座いますが、今日までにこの上で数知れず処分されました死人の血とか、脂肪とか、垢《あか》とかいうものが少しずつ少しずつ大理石の肌目《きめ》に浸み込んで、斯様な陰気な色に変化してしまったもので御座います。
 その解剖台上に投げ出された、黒い、凹字《おうじ》型の木枕に近く、映画面の左手に当ってギラギラと眼も眩《くら》むほど輝いておりますのは背の高い円筒形、ニッケル鍍金《メッキ》の湯沸器《シンメルブッシュ》で御座います。これは特別註文の品でも御座いましょうか、欧洲中世紀の巨大な寺院、もしくは牢獄の模型とも見える円筒型の塔の無数の窓から、糸のような水蒸気がシミジミと洩れ出している光景は、何かしらこの世ならぬ場面を聯想させるに充分で御座います。それから今一つ……初めの中《うち》はチョットお気が付きかねるかも知れませぬが、やがて何となく異様に眼に映って来るであろうと思われまする品物は、右手の窓の下に、壁に接して横たえられております長方型の大きな箱で御座います。その上に白い布が蔽《おお》われているところを見ますと、いか様これは死人を納めた寝棺に相違御座いますまい。……もっとも死体解剖室に寝棺といえば、必然過ぎるくらい必然的な取り合わせでは御座いますが、それが何となく異様に眼を惹きますのは、その上に掛かっております白い蔽いが、高価な絹地らしい、上品な光りを放っているせいでも御座いましょうか……。これは余談かも知れませぬが、このような立派な寝棺が、法医の解剖室に運び込まれるような事は、まずないと申しても宜しい位で、大抵の場合、松か何かの薄い荒板製に、白墨《チョーク》で番号を書き放した程度のものが多いのですが……。
 そうした解剖台と、湯沸器《シンメルブッシュ》と、白い寝棺と、三通りの異様な物体の光りの反射を、四方八方から取り巻く試験管、レトルト、ビーカー、フラスコ、大瓶、小瓶、刃物等の夥《おびただ》しい陰影の行列……その間に散在する金色、銀色、白、黒の機械、器具のとりどり様々の恰好や身構え……床の上から机の端、棚の上まで犇《ひし》めき並んでいる紫、茶、乳白、無色の硝子《ガラス》鉢、又は暗褐色の陶器の壺。その中に盛られている人肉の灰色、骨のコバルト色、血のセピア色……それらのすべてが放つ眩《まぶ》しい……冷たい……刺すような、斬るような、抉《えぐ》るような光芒と、その異形な投影の交響楽が作る、身に滲《し》み渡るような静寂さ……。
 しかも……見よ……その光景の中心に近く、白絹に包まれた寝棺と、白大理石の解剖台の間から、スックリと突立ち上った真黒な怪人物の姿……頭も、顔も、胴体も悉《ことごと》く、灰黒色の護謨《ゴム》布で包んで、手にはやはり護謨と、絹の二重の黒手袋を、又、両脚にも寒海の漁夫が穿《は》くような巨大なゴムの長靴を穿《うが》っておりますが、その中に、ただ眼の処だけが黄色く縁取《ふちど》られた、透明なセルロイドになっております姿は、さながらに死人の心臓を取
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