ばかりで御座います。
 しかし最早すでに、学術の権化ともいうべき心理状態になっているらしい若林博士は、そんな事を気にかけるような態度を微塵《みじん》も見せませぬ。衣裳なんぞには用はないという風に、極めて無造作に、裲襠と、帯と、振袖の三枚|襲《がさね》を掴みのけて、棺の傍《かたわら》に押し込みますと、その下から現われましたのは素絹《しらきぬ》に蔽われました顔、合掌した手首を白木綿で縛られている清らかな二の腕、紅友禅《べにゆうぜん》の長襦袢《ながじゅばん》、緋鹿子絞《ひかのこしぼ》りの扱帯《しごき》、燃え立つような緋縮緬《ひぢりめん》の湯もじ、白|足袋《たび》を穿かされた白い足首……そのようなものがこうした屍体解剖室の冷酷、残忍の表現そのものともいうべき器械、器具類の物々しい排列と相対照して、一種形容の出来ないムゴタラシサと、なまめかしさとを引きはえつつ、黒装束の腕に抱えられて、煌々《こうこう》たる電燈の下に引き出されて参ります。中にも一際《ひときわ》もの凄くも亦《また》、憐れに見えますのは、丈《たけ》なす黒髪を水々しく引きはえて、グッタリと瞑目している少女の顔に乱れ残った、厚化粧と口紅で御座います。そうして……おお……あれを御覧なさい。
 あの襟化粧をした頸部《くび》の周囲《まわり》に、生々しい斑点となって群がり残っている絞殺の痕跡……紫や赤のダンダラを畳んでいる索溝《ストラングマルク》を……。
 ……それを静かに、大理石の解剖台上に横たえました黒怪人物の若林博士は、やはり何の容赦もなく、合掌した手首の白木綿の緊縛を引きほどき、緋鹿子絞りの扱帯を解き放って、長襦袢の胸をグイグイと引きはだけました。そうして流石《さすが》は斯界《しかい》の権威と首肯《うなず》かれる手練さと周到さをもって、一点の曇りもない、玲瓏《れいろう》玉のような少女の全身を、残る隈《くま》なく検査して終《しま》いましたが、やがてホッとしたように肩で息をつきますと、両腕を高やかに組んで、少女の屍体をジッと見下したまま、真黒い鉄像のように動かなくなりました。
 ……この深夜に、斯様《かよう》な場所に於て、世にも稀な美少女の屍体と、こうしてタッタ一人で向い合っている黒装束の若林博士は、果して何事を考えているので御座いましょうか……この少女の死に絡《から》まる残酷と奇怪を極めた事情を、屍体を前にしつつ今一度考え直して、そこに博士独特の透徹、鋭利なる観察の焦点を発見すべく、苦心惨憺しているので御座いましょうか……それともこの屍体が、この教室に於て未《いま》だ曾《かつ》て発見された事のない程に、無残な美くしさと、深刻なあでやかさ[#「あでやかさ」に傍点]とをあらわしておりますために、生涯を学術のために捧げている独身の同博士も、思わず凝然、恍惚として、何等かの感慨無量に及んでいるので御座いましょうか……否々。そのような想像は、厳正周密なる同博士の平生の人格に対して、敬意を失する所以《ゆえん》で御座いますから、これ以上に深く立入らぬ事に致します。
 ……と……やがて突然、吾《われ》に帰ったようにハッとして、誰も居ない筈の部屋の中をグルリと見廻しました若林博士は、黒装束の右のポケットに手を突込んで、何やら探し索《もと》めているようで御座いましたが、そのうちにフト又、思い出したように寝棺の箱に近付いて、美しく堆積した着物の下から、子供の玩具ほどの大きさをした黒い、喇叭《らっぱ》型の筒を一本取り出しました。これはこの節の医者は余り用いませぬ旧式の聴診器で、人体内の極く微細な音響まで聴き取ろうと致します場合には、現今のゴム管式のものよりもこちらの方が有利なので御座います。若林博士は、その喇叭型の小さい方の一端を、少女の屍体の左の乳房の下に当てがいまして、他の一端を覆面の下から、自分の耳に押当てて、一心に聴神経を集中しているようで御座います。
 屍体の心音を聴く。……おお……何という奇怪な若林博士の所業で御座いましょう。見ている者の胸の方が、却《かえ》ってオドロオドロしくなりますくらいで……。
 ……けれども御覧なさい。若林博士は依然として旧式聴診器《ステトスコープ》に耳朶《みみたぶ》を押当てたまま、片手で解剖着の下から、銀色の大きな懐中時計を取り出して、一心に凝視しております……確かに心臓の鼓動音が聞えているので御座います。すなわち、この解剖台上の少女の肉体は、まだ生きているに違いないのであります。……そういえば最前、若林博士がこの少女の全身を検査した時に、死後相当の時間を経過した屍体の特徴として、どこかに、是非とも現われていなければならぬ薄青い死斑が、どこにも影を見せなかった……又、強直した模様もなかったところを見ますると、多分、この少女はあの寝棺に納まっているうちから……否。あの棺
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