伸《あくび》でもしながら……あの紳士の横ッ面《つら》を引《ひ》っ叩《ぱた》いたらドンナ顔をするだろう……この町に風上から火を放《つ》けて、火の海にして終《しま》ったらドンナに綺麗だろう。あの群集を撫で斬りにしたらドンナに痛快だろう。あの瀬戸物屋にダイナマイトをブチ込んだら……あの巡査の向《むこ》う脛《ずね》をタタキ折ったら……あの金魚屋の金魚を電車通りにブチ撒《ま》けたら……あんなお嬢さんを妾《めかけ》にしたら……あの銀行の金庫をポケットに入れたら……なぞいう、飛んでもない光景を、その人間の鼻の鼻の先で描いている。そうしてハッと気が付いては、独《ひと》りで赤面したりしている。
 これはみんな、自分の先祖代々の連中が、やってみたくて堪《た》まらないままに、ジッと我慢して来た残忍性、争闘性、野獣性、又は変態心理なんどの面々が、入れ代り立ち代り現代式の姿で、吾々の意識の中に立ち現われているので、そんな事はないなぞいうのは、内省力のない石頭か、あっても忘れている低能連中に過ぎない。その証拠には、そんな夢遊心理のドレカ一つが昂進し過ぎて、精神異状にまで出世したのを見ると解る。ちょうど小説の濃厚な場面に読み入って、そうした光景を意識の中《うち》に描きながら、思わず涎《よだれ》を垂らす時のように、精神病者の病み疲れた反射交感機能の中では、そんな遺伝心理が、現実の気持ちや感じ以上に強烈、深刻に夢遊しあらわれている……と同時に、それ以外の意識は殆ど打ち消されてしまっているから、本人はシラ真剣になってその夢遊意識をその通りに実行する。だからそのする事、なす事が、一々先祖から伝わって来た気持の通りになって行くのだ。ソックリそのまま吾輩の学説とピッタリ一致して来る事になるのだ。
 今を去る事三千余年。ここを距《さ》る事三千里。
 天竺《てんじく》は仏陀迦耶《ぶっだがや》なる菩提樹《ぼだいじゅ》下に於て、過去、現在、未来、三世《さんぜ》の実相を明《あき》らめられて、無上正等正覚《むじょうしょうとうしょうがく》に入《い》らせられた大聖|釈迦牟尼仏《しゃかむにぶつ》様が「因果応報」と宣《のたも》うたのはここの事じゃ。親の因果が子に報《むく》いじゃア……エエカナア……。アハハハハハハハ。白骨の御|文章《もんしょう》ではない。投げ銭《ぜに》も放り銭も要《い》らぬ。現代科学の中《うち》でも最新、最鋭の精神科学の講義だ。諸君が日常フンダンに経験している恐ろしい精神生活の説明だ。
 しかし諸君。まだ驚いては早過ぎるよ。精神科学の原理原則は、もっともっと恐ろしい、驚目、駭心《がいしん》に価《あたい》する事実を提供しているんだよ。
 今まで説明して来たところによって既に、アラカタ理解されているであろう。人間の代が変るのは、吾々が眠って又、醒めるようなものである。一夜眠ったら昨日《きのう》の事なぞ、キレイに忘れていそうなものだが、サテ起き上ってみると、殆ど無意識に、大工は昨日建てかけた家の続きを建てに行き、左官も同様に昨日の壁の続きを塗りに行く。そうすると又、昨日の事を思い出して……ハテ昨日、ここで十銭玉をオッコトシタが……とか、きのうの丁度今時分に、向うを別嬪《べっぴん》が通ったっけが……とかいうので、昨日のその時分に、そこでそうした通りに、キョロキョロしたり、ポカンとなったりする。
 精神の遺伝もその通り……親は昨日の自分で、子は明日《あした》の自分じゃ。夜は昨日の自分から、今日の自分が生まれて来る、暗い、無自覚のみごもり[#「みごもり」に傍点]の姿になる時間じゃ。
 されば男女を問わず人間は、自分の先祖が嘗《かつ》て、そんな気分、精神状態になった場面、品物、時候、天候なぞいう、所謂《いわゆる》、暗示[#「暗示」に傍点]にブツカルと、今の大工や左官と同様に、ありし昔の心理状態に立ち帰る……しかも、そんな風にして先祖代々から遺伝して来た心理は、一つや二つじゃないぞよ。又、そうした心理の暗示[#「暗示」に傍点]となるべき場面、品物、天候なぞいうものも、そこいら中にベタ一面に充満していて、夜となく、昼となく吾々の心理遺伝を刺戟し続けていて、眼の見える限り、耳の聞える限り、一刻一|刹那《せつな》も休んでいないのだから恐ろしいぞよ。吾々の一生を支配している「艮《うしとら》の金神《こんじん》」というのは、実にこの「心理遺伝」の原則であるぞよ。今にドエライ証拠を出すぞよ……。
 アハハハハハ。大本《おおもと》教のお筆先と間違えてはいけない。吾々が日常に経験している極めて平凡な事実だ。吾々の気持が朝から晩までフンダンにクラリクラリと変化し、入れ換って行く……活動見に出かけるつもりが、途中でフイッと縁日の夜店に引っかかったり……旅支度で家を飛び出した奴が、図書館にモグリ込んだり……好《
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