す》いた同志が結婚間際でイヤになったり……鉄《かね》の草鞋《わらじ》で探し当てたタッタ一つの就職口をハガキ一本で断ったりするような、重大な心理の変化が引っきりなしに起るのは、そうした種々雑多な、無量辺の暗示が、引っきりなしに吾々の心理遺伝を支配しているからで、それを自分自身に気付かないでいるのは、そうした暗示と心理遺伝の関係の千変万化が、あまりに刹那的で、微妙、深刻を極めているからだ。
 ……ところで……どうだい諸君。こうした暗示と心理遺伝の関係をモット深く、学理的に研究したら、イロンナ面白いイタズラが出来そうには思えないかね。ちょうど物理や化学の実験を見るように他人の精神に対して、思い通りの変化が与えられそうには思わないかね。
 手近い例を挙《あげ》ると、人間の犯罪心理というものは、実に詰《つま》らない……又は全然、何の関係もないと思われる暗示のお蔭で、意想外に大きな刺戟を与えられている場合が、非常に多いものである。……たとえば赤インキを附けたペン先をジッと見詰めているうちに何故ともなく横に在る女優の写真の眼玉に、突き刺してみたくなったり……青い空や、白い壁を見つめているうちに、フイッと残忍な気持になったり……窓の外の霧を見ると、ピストルの手入《ていれ》をしてみたくなったり……大風の音を聞《きい》ているうちに、短刀を懐《ふところ》にして歩いてみたくなったり……よく切れる剃刀《かみそり》を見ると、鏡の中の自分の顔と見比べてニヤニヤと笑ってみたり……寝床の中で女が冗談に「殺してもいいわよ」と云った笑顔を見てホントウに殺す気になったり……応接間に聞えて来る小鳥の啼《な》き声が、今の今まで真面目であった男女の間に、不倫な情緒を起させるキッカケになったり……なぞする。そんな気持の変化を見ると、別段に、何故という理屈の附けようのないところが、心理遺伝のあらわれに相違ないので、しかもそのいずれもが、スバラシク大きな犯罪心理の最初の芽生えである事は云う迄もない。
 又は、古い講談、随筆、伝説、記録なぞいうものを読んでいると先祖が見てはいけないと云い残した幽霊の掛軸を見てから、妙な事を口走るようになったの、抜いてはならぬと禁《いま》しめられている伝家の宝刀を抜いて見ているうちに、血相が変って来たの……というような話が、いくらでも出て来るのは、そうした恐しい心理遺伝の暗示の力を、誰にでもよくわかる品物であらわしてあるので、吾輩が調査記録した書類の中にも、そんな例が山を積む程ある。
 ところで、こんな暗示の怖るべき作用を、学理的に研究して、ドシドシ実際に応用する事が出来るとなったら、ドンナ事になるだろう。犬山|道節《どうせつ》、石川五右衛門、天竺《てんじく》徳兵衛、自来也《じらいや》以上の幻魔術が現代に行われ得る事になりはしまいか。
 それ程でなくとも、この種類の暗示を巧みに利用すると、出会い頭に他人を発狂させる事が出来る。無調法な現代の科学応用の兇器みたように、音を立てたり血を流したりしないから、白昼の往来で傍《そば》を通っている者でも怪しまない。当代の如何なる名探偵が駈け付けて来ても全然|目星《めぼし》の付けようのない犯罪が行える……否、現在そこいらでドシドシ行われているとしたらどうだね。
 フフフフ……そんなに固くなって座り直さなくともいい。イクラ吾輩が精神科学の大家でも、このスクリーンの中から暗示を与えて、満場の諸君を一斉に発狂させる術は、まだ発見していないからね。尤《もっと》も、そんな事が出来たら面白いだろう……とは思っているんだが……ハッハッハッ……。
 イヤ、これは冗談だが、こうした犯罪手段は既に、空想や、推測の範囲を通り越して、眼の前の問題となって来ている。事実は常に研究に先立って存在するものである……と云ったらチョット眉に唾液《つばき》を付けてみたくなるであろう。
 ところが驚く勿《なか》れだ。現に吾輩の畏友《いゆう》、九州帝国大学医学部長、若林鏡太郎《わかばやしきょうたろう》君の名著『精神科学応用の犯罪とその証跡』と題する草稿の中に、緒論として、コンナ愚痴《ぐち》が並べてある。ちょうどその緒論だけが、吾輩の処へ校閲を頼んで来ているから、ちょいと失敬して抜き読みをしてみると、コンナあんばいだ。……曰《いわ》く……

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 ――余ノ調査研究セルトコロニ依《よ》レバ、既ニ往昔《おうせき》ヨリコノ種ノ犯罪ガ行ワレツツアリシ事実ヲ認ムルヲ得ベシ。例エバ役行者(えんのぎょうじゃ)、阿部晴明(あべのせいめい)、弘法大師等ノ密教、陰陽術ノ流《ながれ》ヲ伝ウル者、真言秘密ノ行者、修験者《よげんじゃ》、祈祷師、代人、巫女《みこ》、ソノ他、何々教、何々様ト称スル神仏類似ノモノニ奉仕スル輩ノ中ニハ、積年ノ経験ヨリ得タル一種ノ精神科
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