す事が出来ない……という性格を、先祖の誰からか遺伝して来ているので、取りも直さず心理遺伝のあらわれに外《ほか》ならないから困るのだ。
 そのほか、凝《こ》り性、厭《あ》き性、ムラ気、お日和《ひより》機嫌、胴忘《どうわす》れ、神経質、何々道楽、何々キチガイ、何々中毒、男あさり、女たらし、変態心理なぞの数を尽して百人が百人、千人が千人とも多少の精神異状的傾向を持たない者はない。心理遺伝に支配されていない者はないから大変なのだ。
 この道理は吾輩がズット前に書いた「胎児の夢」という論文を読めば一層よくわかるが、人間の精神とか霊魂とかいうヤツは要するに、その先祖代々の動物や人間から遺伝して来た、色々な動物心理や民衆心理なぞの無量無辺の集まりに過ぎないのだ。その表面を「コンナ事をしたら笑われる」とか「もし見付かったら大変だ」とかいう所謂《いわゆる》人間の皮一枚で包んで、その上から又、倫理、道徳、法律、習慣なぞいうテープで縛って、社交、礼節、身分、人格なぞいう様々なリボンやレッテルで飾り立てて、更にその上からもう一つ、お化粧や油で塗りこくって、パラソルやステッキを振り廻しながら「貴殿が紳士なら拙者もゼントルマンで御座る」「あなたがレデーなら妾《あたし》も淑女だわ」「ウヌが人間なら俺様も人間だ」といった風に、肩で風を切って白昼の大道を濶歩するのが所謂普通人……もしくは文化人に外ならないのだ。
 ところが、こうしたアイタイずくめの文化人の包装は、その低級深刻にして、奔放無頼なる心理遺伝の内容を洩らすまいとして、いつも一パイに緊張している。その苦し紛《まぎ》れに、ソッと少し宛《ずつ》、息を抜きながら、人前だけを繕《つくろ》って知らぬ顔をしているのが普通人であるが、それがトテも我慢し切れなくなって、どうかした拍子に大きく破れる事がある。それが個人では癇癪《かんしゃく》、脱線、喧嘩、殺傷、詐欺、泥棒、姦通その他の背徳行為となり、破れて復旧しないものは精神異状者となり、大勢の間では暴動となり、戦争となり、悪思想となり、頽廃的風潮となる。こうした心理遺伝の曝露の実例は、毎日の新聞でウンザリするほど見せ付けられているであろう。
 吾輩は敢《あえ》て断言する……諸君も吾輩も共々に、精神病者と五十歩百歩の心理状態で生きているのだ。普通人と精神病者との区別が付けられないのは、刑務所の中に居る人間と、外を歩いている人間との善悪の区別が付けられないのと同じ事である。即ち地球表面上は古往今来ソックリそのまま「狂人の一大解放治療場」となっているので、九大の解放治療場は、その小さな模型に過ぎないのだ。その証拠には、その中に居る患者たちも、やはり諸君や吾々と同様に「俺はキチガイではないぞ」と確信しつつ、盛んに心理遺伝を発揮しているではないか……と……。
 ハハハハハ……どうだい諸君。少々腹が立ちはしないか。ナニ。……立たない……エライエライ。成る程諸君は立派な常識屋だ。現代文化を代表するに足る紳士淑女たちだ……エッ。何だって……? そうじゃない。相手がキチガイ博士だから、初めから本当にして聞いていない……?……ウハッ。こいつは恐れ入った。そこまで常識が発達していちゃ敵《かな》わない。
 よろしい。その儀ならばこっちにも覚悟がある。由来、科学の研究は厚顔無恥、無礼無作法を以て本領とする。御免を蒙《こうむ》り序《ついで》にモット手近いところで人間諸君の赤恥を突《つっ》つき出して、是非とも一つ腹を立てさせて進ぜる事にしよう。
 これはドナタでも御経験の事と思うが、すこし頭がボンヤリして来ると、色々な空想や幻覚が、次から次に浮き出して来るものである。
 ところでこの空想とか、幻覚とかいう奴が、取りも直さず心理遺伝の幽霊に他ならないので、学問的に説明すると、脳髄の反射交感機能が疲労、凝帯《ぎょうたい》したために、理智や、常識との連絡を失った色々な心理遺伝のアラレもない連中が、全身の反射交感機能の中で我勝ちに、勝手気儘な夢中遊行を初めたものに相違ないのである。……とりあえず女ならば、障子の蔭で、洗濯物か何かをツヅクリ廻しながら、来《こ》し方、行く末の事を考えまわしているうちに、いつの間にか取止めもない事を考え初める……あのデパートのあの指輪を万引して、もし見付からないものだったらナアとか……今の亭主が、今のうちに財産を残して死んだら、あんな好《い》い人とコンナ面白い生活が出来るんだけどナアとか……憎いアン畜生を、こんな風に嬲《なぶ》り殺しにしたらナアとか……お義母《っか》さんに猫イラズを服《の》ませたらドンナにか清々《せいせい》するだろうにナアとか……あんな役者と心中したらとか……いっその事ヴァンパイヤになってやろうか知らん……なぞと……。又、男は男で、電車の窓から外を見て、長々と欠
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