い鼻の左右にピカピカ光る大きな鼻眼鏡と、その下に深く落凹《おちくぼ》んだ鋭い眼付き、横一文字にピッタリと結んだ大きな口元、又は鼻眼鏡をかけた骸骨ソックリの表情で、テーブルの前に立ちはだかって、諸君を一渡り見まわしてから、総入れ歯をカッと剥《む》き出して笑うところまで、満身これ精力、全身これ胆《たん》、渾身《こんしん》これ智……。
 ……どうも……そうお笑いになっては困ります。……ナニ。質問……ハイハイ何ですか。ハハア。説明している私と、画面の中の正木博士と同一人か別人か……。
 アハハハハハ。これは失敗……早速退散致しまして画面の中の私……否。正木博士に説明させる事に致します。【説明者消失】

【映写幕上の正木博士、身振りに従って発声】
 ……エヘン……オホン……。
 ……吾輩は満天下の新人諸君と、この銀幕上に於て相見《あいまみ》ゆる事を生涯の光栄とし、且《かつ》、無上の満足とする者である。
 諸君は常識の世界に住んでいながら、非常識の世界に憧憬《あこが》れている人々である。現在、地上の到る処……汽車、汽船の行き尽すきわみ、自動車、飛行機の飛びつくす隈々《くまぐま》に儼然《げんぜん》とコビリ付き、冷え固まっている社交上の因襲、科学に対する迷信、外国の模倣、死んだ道徳観念……なぞいう現代社会の所謂《いわゆる》常識なるものに飽き果《はて》て、変化溌溂、奔放自在なる生命の真実性そのものの表現を渇望する心……すなわち溢るるばかりの好奇心に輝く眼《まなこ》を以て、吾輩の畢生《ひっせい》の研究事業たる「心理遺伝」の実験を見られると、立所《たちどころ》にこれを理解された。一般の精神病者なるものが、如何なる力に支配されて、何事を行っている者であるかという事実を何の苦もなく首肯された。……のみならず諸君の好奇心は、それだけに満足しないで、更に、百尺|竿頭《かんとう》一歩を進めた質問を発せしめた。曰《いわ》く……「心理遺伝はタッタそれだけのものか」……と……。すなわち諸君の頭脳は、吾輩の二十年分の研究と相|伯仲《はくちゅう》する……否……正木キチガイ博士の頭のスピード以上の明快なるスピードを以て……イヤ……有難う。まだ拍手するには早いよ……この点に就て吾輩は特に、満腔の敬意と、感謝とを表明する次第である。
 ……何を隠そう。吾輩の所謂「極端な心理遺伝」が、ただ、そんな風にして精神病者にだけ現われるものならば、大して驚く事も、心配する事もないのだ。尤も今まで説明して来た程度の研究でも、そこいらにウジャウジャしているオタマジャクシ学者なんかにとっては眼の玉がデングリ返る程の大発見かも知れないが、しかし、斯《か》く申す吾輩、キチガイ博士にとっては、躄《いざり》の乞食が駈け出した位にしか感じない程度の新発見に過ぎないのだ。
 吾輩が「心理遺伝」の恐しい事を、大声疾呼《たいせいしっこ》して主唱する所以《ゆえん》の第一は、それが斯様《かよう》にして精神病者に現われるばかりでない。普通人……すなわち諸君や吾輩にも精神病者と同様に、フンダンに現われている事が、明かに証明出来るからなのだ。
 ……ナニ。質問……イヤ。ちょっと待ってくれ給え。質問の意味はアラカタ解っている……それでは精神病者と、普通人との区別が、わからなくなるではないか。そんな篦棒《べらぼう》な話があるものか……と云うんだろう。
 ……ところが純正な科学者の立場からいうと、そんなベラボーな話が「ある」という以外に返事の仕様がないから困るのだ。しかも精神病者とおんなし程度どころの騒ぎではない。吾々……むろん諸君も含んでいるんだよ……の精神生活の中には、精神病者と寸分違わない……もしくはソレ以上のモノスゴイ「心理遺伝」が、朝から晩まで、一分、一秒の隙間《すきま》もなく活躍している……眠っている間も夢となって立現《たちあら》われて、執念深く吾々の心理を支配しているから困るのだ。そのために自分の心が、自分で自由にならない場合が非常に多いから困るのだ。おかげで新聞、雑誌の社会記事が、無限に提供されて行く事になるのだから、問題にしない訳に行かなくなって来るのだ。
 ……これはズット以前、新聞記者にチョット話した事がある、心理遺伝の中でも極く極く手軽い実例ではあるが、無くて七癖、あって四十八癖という奴は、精神病者と同様に、自分の気持が、自分で自由にならない好適例である。しかも、それを他人からドンナに笑われても、又は自分自身で是非とも改めなければならぬ必要を感じていても、どうしても止める事が出来ないのは、ソレが今いう心理遺伝のあらわれだからである。……泣くまいと思ってもツイ涙が出る。憤《おこ》る場合でないと思っても、思わずムラムラッと来て、前後を忘却してしまうのも、やはり一時的の精神の偏《かたよ》りを、自分で持ち直
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