》、独《ひと》りこの演説男のみに限らんやであります。一般に吾々が睡眠中に、どこか高い処から落ちたような気がして、ハッと眼を醒ますことがありますのもこの例に照してみますと、格別、不思議では御座いませぬ。吾々の両親でも祖父母でも、誰でも一度や二度は経験しているであろう「シマッタ」とか「俺は死ぬんだッ」とか思う瞬間の、悽愴、悲痛を極めた観念の記憶が、一つの心理遺伝となって、吾々子孫に伝わったものの再現であろう事は、誰しも疑い得なくなるで御座いましょう。
 御質問は御座いませんか……。
 序《ついで》に今一つ御紹介致しますると、あのボール紙の王冠を頭に戴いて、行きつ戻りつしている年増女で御座います。これはあの衣紋《えもん》のクリコミ加減でもお解りになります通り、或る町家《ちょうか》の娘で、芸妓《げいしゃ》に売られておった者で御座いますが、なかなかの手取りと見えて、間もなく或る若い銀行家に落籍《ひか》される事になりました。ところがその銀行家の両親が昔気質《むかしかたぎ》の頑固者揃いで「身分違い」という理由の下に、彼女を正妻に迎える事を許しませんでしたので、彼女はそればかりを無念がりました結果、或る宴会の席上で、初めてのお客に向って「アンタが何ナ……妾《わたし》に盃《さかずき》指すなんて生意気バイ」と啖呵《たんか》を切りますと、イキナリその盃を相手にタタキ付けて、三味線を踏み折ってしまった……そのまま当病室《こちら》へ連れて来られたという痛快なローマンスの持ち主で御座います。しかし、思案の外《ほか》とは申しながら、昔と違いました新思想の今日で、ことに浮気稼業の身の上で御座いますから、それくらいの事で取り乱すのはチト気が狭過《せます》ぎるように思われるかも知れませぬが、そこが「心理遺伝」の恐ろしいところで、「身分違い」という言葉が、彼女のプライドを傷つける以上に深い打撃を与えたであろう事が、彼女の発病後の態度を御覧になるとわかります。あの通りトテモ見識ばったお上品ずくめで、腰附きから眼づかい、足どりまでも上《うえ》つ方《がた》のお上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《じょうろう》ソックリで御座います。すなわち彼女の家筋が、御維新前までは京都の鍋取公卿《なべとりくげ》……貧乏華族の成り損《そこ》ねであった事を、彼女はその精神異状によって証明致しておりますので、本籍の名前も町人らしくない清河原《きよかわら》という苗字で御座います。つまり彼女は、発病致しませぬ前までは、環境《まわり》の風俗にカブレて町家の娘らしく振舞っていたで御座いましょうが、一旦、精神に異状を呈してしまいますと、最近、一二代の間に出来た町家風《まちやふう》の習性をケロリと忘れて、先祖代々の堂上方の気風を、そのままにあらわしているので御座います。
 ……ハイ……御質問ですか。サアどうぞ……。
 ……ナナ……ナル……ナルホド……如何にも御尤《ごもっと》も千万……よくわかりました。つまり「心理遺伝」というものはタッタそれだけのものか……タッタそれんばかりの研究のために、正木博士は生命《いのち》がけの騒ぎをやっているのか……と仰言《おっしゃ》るのですね。
 ……恐れ入りました。多分その御質問が出る頃と存じましたから、このフィルムの編輯者の方でも気を利かしまして、次には心理遺伝の発見者である当の正木博士を、正面のスクリーンに映写致しますと同時に、只今の御質問について一場の講演をさせる順序に取計《とりはか》らっております。……九大の狂人《きちがい》博士として、アインスタイン、スタインナハ以上に有名な正木博士がスクリーンに現われましたならば、何卒、割《われ》むばかりの拍手を以て、お迎えあらむ事を希望致します。何故かと申しますと当の御本人が非常な拍手好きで、講義中でも学生に拍手させるのを何よりの楽《たのし》みに致しておった位で御座いますから……ナニ……何ですか……スクリーンの中からじゃ、手を叩いても聞えまい……?……。アハハ。これは御尤も千万……ところが聞えるから不思議で御座います。論より証拠……たたいて御覧になればわかる事で……どこに種仕掛《たねしかけ》があるかは、眉に唾《つば》をつけて御覧になれば、すぐに、おわかりになる事と存じますが……エヘンエヘン…………。
 ……エエ……これが天下に有名な九州帝国大学、医学部、精神病科教授、医学博士、正木|敬之《けいし》氏で御座います。背景は九州帝国大学、精神病科本館、講堂のボールドで、白い診察服を着ておりますのは、平生の講義姿をそのままに画面にあらわしたもので御座います。
 お眼止《めどま》りました通り、身長は五尺一寸キッカリしかない、色の浅黒い小男で御座いますが、丸い胡麻塩《ごましお》頭を光る程短かく刈込んだところから、高
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