いう、世にも名誉ある鉢巻で御座いました。
 ところが、それから物変り星移りまして、その鉢巻儀右衛門から五代目に当るこの儀作爺さんになりますと、その名誉ある鉢巻も左利きも、それから惜しい事にその大身代も、どこかへなくしてしまいまして、博多名物の筆屋の職人に成り下りました。そうして斯様に老年に及びまして、眼が霞んで細かい筆毛が扱えないようになりましたために、余儀なく失職する事に相成りますと、それを苦に致しました結果、精神に異状を来しまして、一週間ばかり前に、当大学に連れ込まれるという、憐れな身の上と相成ったので御座います。
 ところが不思議で御座います。正木先生がこの爺さんの発狂の動機、すなわち心理遺伝の内容を探るべく、解放治療場に解放されましてから間もなくの事で御座いました。場内の片隅に、小使が蛇を殺したまま置き忘れて行った鍬を見付けますと、早速先祖の真似を初めました。もっとも鉢巻は致しませぬが、御覧の通り最前から一度も汗を拭いませぬ。又、鍬を持っている手附きも、発狂前と正反対の左利きになっておりまして、十二時の午砲《ドン》を聞きますと同時に、鍬を投げ出して病室に帰って、サッサと食事を済まして、ゴロリと寝台の上に横になるところまで、五代前の儀十の生れ代りとしか思えませぬ。但し一度寝てしまいますと、疲労が甚しいせいか、あくる朝までブッ通しに白河夜舟《しらかわよふね》で、晩飯も何も喰いませぬ。おおかた夢の中で、曾々祖父の儀十になって、大身代でも作っているので御座いましょう。
 ……これが心理遺伝の第一例……御質問がありましたら御遠慮なくお手をお上げ下さい。
 次に御紹介致しまするは最前から、赤煉瓦の壁に向って演説を致しております破れモーニングの小男で御座います。これは、あの空中で振り動かしております右の手附と、物を支え持ったような恰好にしている左の手と、それからあの、演説の中《うち》に使っている言葉が、有力な参考になるので御座います。
「……これは帝国の前途に横たわる一大障壁であります。今日の如く上塗《うわぬ》りの思想が横行し、糊塗縦横の政治が永続しているならば、吾々日本民族の団結は、あの切藁《すさ》を交えぬ土塀の如く、外来思想の風雨のために、遠からず土崩瓦解の運命に……」
 いかがです。最前からお聞きの通り、この毬栗《いがぐり》のフロック先生の演説の中には、壁という文句や、又は壁に関係した言葉が、度々出て参ります。すなわちこの小男の母方の祖父は、黒田藩御用の左官職であった……お笑いになっては困ります。落語では御座いません……でありまして、その祖父の左官職人が、或る時、福岡城の天守|櫓《やぐら》の上で仕事を致しておりますうちに、過って足を辷《すべ》らして墜落惨死を致したので御座いますが、しかも、その祖父というのは元来、何事につけても身の軽いのが自慢だったそうで……天守台の屋根に漆喰《しっくい》のかけ直しをする時なぞは、殿様が遠眼鏡《とおめがね》で、その離れ業《わざ》を御上覧になった位だそうで御座います。そのほか平生の時にも足場を極めて簡略にして仕事をする癖がありましたために、出来上りは早う御座いましたが、何度も足がかりを誤ったり、途中に引っかかったりして生命《いのち》を喪《うしな》いかけましたのを、いつも奇蹟的に助かって来たので御座いました。
 然るに、それが幾歳の時で御座いましたか、やはり天守の御屋根の絶頂に登って、殿様の遠眼鏡の中で働らいておりまする中《うち》に、ウッカリ殿様の方へお尻を向けました。すると、それを下から見上げておりました係りの役人が、止せばいいのに大音を揚げまして「心せいや――い。御本丸から御上覧ぞ――う」と余計な注意を致しましたために、思わず固くなったもので御座いましょう。忽《たちま》ち足を踏み辷《すべ》らしまして、数丈の石垣から転がり落ちつつ、粉微塵《こなみじん》となって相果てました。それ以来、その家の左官の職は絶えたので御座いますが、サテその祖父の血が、その娘を通じて、このモーニングの小男に伝わりますと、恐ろしいもので御座います。この男は中学時代までも時々、夜中に寝呆けて跳ね起きまして「助けてくれ」とか何とか云って叫び出す癖がありました。その都度《つど》に家族の者が驚かされて「どうしたのか」と落ち付かせて聞いてみますと「何だか高い屋根か、雲の上みたような処から、真逆様《まっさかさま》に落ちて行くような気がした」と申しましたそうですが……ナント奇妙では御座いませんか。斯様《かよう》に普通人の眼から見れば何でもない、軽い、夢中遊行の発作にまでも、何代か前の先祖が幾度となく「ハッ」とした刹那《せつな》の、徹底した恐怖の記憶が再現しているところなぞは、何という不思議な心理遺伝の実例で御座いましょう。……否、豈《あに
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