まった。しかもこの青年はそればかりでなく、その前に十六の年にも同じ発作にかかって、実の母親を絞め殺したという、この方面でも稀に見る英雄児であるが、しかもその後、この教室にやって来て、吾輩独特の解放治療にかかっているうちに、次第に正気を回復して来たらしく、この頃は自分の頭髪《あたま》を掻きまわしたり、耳の上を挙固でコツンコツンとなぐったりしてここがドウかなっているに違いない違いないと云い出しはじめた。そうして時々部屋の中で立止って、脳髄の演説を初める事があるが、その演説が又、一から十まで、この教室で聞いた吾輩の受け売《うり》だから痛快で、吾輩も時々参考のために拝聴に行く位だ。この種類の人間の記憶力のスバラシサというものはトテモ想像を超越したモノスゴイものがあるのだからね……何故かというとこの青年は強烈な夢遊病の発作に罹《かか》った結果、過去の記憶から完全に切離されているので、現在の出来事に対する記憶作用は、何ものにも邪魔されない絶対の自由世界に浮いて遊んでいる。だから一旦注意力を集中するとなるとドンナ細かい事でも超人的の正確さをもって記憶する事が出来るのだ。しかし平生はこの通り、初めて卵から這い出した生物のように、ビックリした表情を続けているから、とりあえずアンポンタン・ポカン博士という尊称を奉っている訳であるが……」
 正木教授がここまで講義して来ると、学生連中が一度にこっちを見てゲラゲラ笑い出したものである。だから吾輩は、そのままポカンと精神病院を飛び出してしまった。そうして今日只今、この十字街頭に立って、諸君の脳髄の異状振りを観察しているうちに、断然、棄てておけなくなったからこんな警告を発したのだ。時空を超越したポカン式脳髄論を、思い切って公表したのだ。

 ……ナント諸君感心したか。見たか。聞いたか。驚いたか。
 吾輩アンポンタン・ポカンが一たび『脳髄は物を考える処に非ず』と喝破するや、樹々はその緑を失い、花はその紅《くれない》を消《けし》たではないか。一切の唯物文化は根柢から覆《くつが》えされ、アラユル精神病学は悉《ことごと》く机上の空論となってしまったではないか。

 ……繰返して云う。
 人類は物を考える脳髄によって神を否定した。大自然に反逆して唯物文化を創造した。自然の心理から生れた人情、道徳を排斥して個人主義の唯物宗を迷信した。そうしてその唯物文化を日に日に虚無化し、無中心化し、動物化し、自涜《じとく》化し、神経衰弱化し、発狂化し、自殺化した。
 これは悉く『物を考える脳髄』のイタズラであった。『脳髄の幽霊』を迷信する唯物宗の害毒であった。
 けれども今や、この迷信は清算されねばならぬ時が来た。神に対する迷信を否定した人類は、今や『物を考える脳髄』を否定しなければならぬドタン場に追い詰められて来た。唯物科学の不自然から唯心科学の自然に立帰らなければならぬスバラシイ時節が到来したのだ。
 だからそのスローガンの実行の皮切《かわきり》に、吾輩アンポンタン・ポカンはこの通り、自分自身の『物を考える脳髄』を地上にタタキ付けて見せたのだ。
 そうしてこの通り踏み潰してしまうのだ。
 ……エイッ……ウ――ン……」

       ×          ×          ×

 ……と……。
 アハハハハハ……ドウダイ驚いたか。……見たか。聞いたか。感心したか。
 これが吾輩の所謂《いわゆる》、絶対科学探偵の事実小説なんだ。超脳髄式の青年名探偵アンポンタン・ポカン博士が、博士自身の脳髄を追《おっ》かけまわして、物の美事に引っ捕えて、地ビタにタタキ付けて、引導を渡すまでの経過報告だ。世界最高級の科学ロマンス「脳髄|−《マイナス》脳髄」の高次方程式の分解公式なんだ。
 だからこの小説のトリックの面白さが、ホントウにわかる頭ならば……ホラ……この間君に貸してやったろう。あの「胎児の夢」と名付くる論文の正体の恐ろしさがわかる。その胎児が、母の胎内で見ているスバラシイ大悪夢を支配する原理原則がわかる。そのモノスゴイ原理原則を実験している解放治療の内容だの、そこに収容されているアンポンタン・ポカン博士の正体や、その戦慄すべき経歴なぞが、手に取るごとく理解されて来るのだ。
 しかもその上に、モウ一つオマケのお慰みとしては……「脳髄が物を考える」という従来の考え方を、脳髄の中で突き詰めて来ると「脳髄は物を考える処に非ず」という結論が生れて来る……という事実はモウわかったとして、その「考える処に非ず」をモウ一つタタキ上げて行くと、トドの詰りが又もや最初の「物を考えるところ」に逆戻りして来るという奇々妙々、怪々不可思議を極めた吾輩独特の精神科学式ドウドウメグリの原則までおわかりになるという……この儀お眼止まりましたならばよろしくお手拍子《て
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