……往来へ馳け出す……取押えられる。鉄の格子をゆすぶって狂いまわる……又は何々狂乱と名付けられて花四天の下に振付けられ、百載《ひゃくさい》の後《のち》までも大衆の喝釆を浴びる……という順序になる。
もっとも、これは普通の人間が普通に発狂して行く順序で、こうした傾向をチットばかり持っている人間が普通人で、多分に持っている人間を所謂《いわゆる》、精神病系統《キチガイスジ》の人間と呼んでいるに過ぎない。だから発明狂、研究狂、蒐集狂、そのほか何々狂、何々キチガイと呼ばれている人間は程度の相違こそあれ皆、このお仲間に相違ない。手当が早ければ救われ得る場合が無きにしもあらずであるが、サテコイツがモウ一段開き直って、本格の夢中遊行病となるとガラリと趣が違って来る。……無論、精神病の一種に相違ないし、その活躍ぶりも普通の狂人以上にモノスゴイものがあるのだが、しかしその当の本人は普通人とチットモ変らない。否、寧《むし》ろ、鼻の病気か何かで少々ボンヤリしていたり、頭が素敵にデリケートで学問が出来過ぎたり、気が弱過ぎて虫も殺せなかったりするような、特別|誂《あつら》えの善人の中に往々にして発見される珍病で、キチガイなぞいう名前はドウしてもつけられないのであるが、それでいてその人間が真夜中になると、ムクムクと起上って、キチガイ以上の奇抜滑稽や、残忍無道をヤッツケルのだから、イヨイヨモノスゴくて面白い事になるのだ。
すなわちその人間が眼を醒している間の意識状態は普通の人間とチットモ変らない。その全身の細胞の意識は、脳髄の反射交感作用によって万遍なく統一、調和されて行くのであるが、サテ日が暮れて夜が更けて、その人間の脳髄が、全部休止の熟睡状態に陥ることになると、その熟睡状態なるものが普通人のソレと違って来る……つまり普通の熟睡の程度をズット通り越して、死の世界の方へ近付いて行くので、当り前のユスブリ方や怒鳴り声では絶対に眼を醒まさない所謂《いわゆる》、死人同様の状態にまで落ち込んでしまう……というのがこの夢中遊行病患者の特徴になっているのだ。
ところでソンナ風に睡眠の度が深くなって来ると、その必然的な結果として、全身の細胞の意識の中に、そこまで深く睡り切れない奴が一つか二つ出来る事になる。しかもその眠り後《おく》れた意識は、背景が黒くなればなる程、前景が光り出して来るように、睡眠が深くなればなる程ハッキリと眼を醒して、色々な活躍を初める事になるのだ。
たとえば或る人間が、或る感情とか、意志とかの一つだけを、極度に昂奮させたまま眠りに落ちたとする……『あのダイヤが欲しいナア』とか……『憎いアンチキショウを殺してやりたい』とか思って昂奮しいしい眼をつむっていると、やがて、その脳髄が熟睡のドン底に落ちた時に、その脳髄と一所に睡っている細胞の中でも、その意識だけがタッタ一つ睡り後《おく》れて眼を醒している。そうしてその意識は、良心とか、常識とか、理智とかいうものと連絡を失った、片チンバの姿のままで起き上って、全身の細胞が持っている反射交感作用を脳髄の代りに使いながら動き出す。そうして全身の細胞の中から、必要に応じて勝手気儘に呼び起した判断、感覚なぞいうものと連絡を取りつつ、見たり聞いたり、考えたりして、望み通りの仕事をする。欲しいダイヤを失敬したり、憎いアンチキショウを殺したりするのであるが、しかし、そんな仕事をしている途中の出来事は、脳髄を通過した印象でないからチットモ記憶していない。あとで眼を醒してもケロリとして、平生とチットモ変らないアンポンタン・ポカン人種に立ち帰っている。たとい盗んだダイヤモンドや殺した相手の死骸を突付けられても、知らない事は白状出来ないので、いよいよアンポンタン・ポカンとなるばかりだ。
その代り、そうした夢中遊行の最中は、全身の細胞が、脳髄の役目と、自分たちの専門専門の役目と両方を、同時に引受けて活躍している訳だから、眼が醒たあとで一種異様な疲労を自覚するのが通例になっている。この道理は薬を使って、脳髄だけを麻酔させた場合と全然同一であるのを見ても、容易に首肯出来るのであるが、しかし又、この麻酔後の疲労と、夢中遊行後の疲労とは、そんな風に全然同じ性質の疲労でナカナカ鑑別が出来にくいものだから、非常に面白い法医学上の研究問題となる事がある。
その好適例として持て来いの標本は、現在、ここに突立って、吾輩の講義を傾聴しているこの青年である。この青年は諸君の中に見知っている人が居るかも知れない。住所姓名は例によって公表を差控えるが、まだやっと二十歳《はたち》になった今年の春に、この大学の入学試験を受けて、最高級の成績でパスすると間もなく、可哀相に先祖から遺伝して来た夢中遊行病の発作にかかって、結婚式の前夜に、自分の花嫁を絞殺してし
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