こ》いだりする際にマザマザと体験しているところであろう。
昔の人は迷信が深かったから、暗闇の中なぞを行く時には、恐怖のために脳髄を疲らして色々な幻覚や倒錯観念に陥ったものだ。そんな幻視や幻感が、幽霊になったり、妖怪|変化《へんげ》になったりして、物の話に伝わり残っているのであるが、しかも、そんな事実を笑う連中はお気の毒ながら現代式のハイカラな神経の持主とはいえないのだ。神経衰弱とヒステリーと、制限剤と睡眠薬を持ちまわる紳士淑女の仲間に這入れないのだ。
諸君みたような近代人の中《うち》でも、特に目まぐるしい都会生活をやっている人間たちは、真昼さ中でも脳髄の機能を疲らしているから、色んな意識作用や、判断感覚なぞいうものが遊離して、全身の神経末梢……細胞相互間の反射交感機能を這いまわりつつ、フラフラチラチラとした夢中遊行状態になりかけているのだ。……だから、大きな煙突の傍を通ると、今にも頭の上に倒れかかって来るような気がして、思わず急ぎ足になるのだ。……眠っている枕元に、往来の電車の音が走りかかって来るような気がして、ツイ電燈を灯《つ》けてみたくなるのだ。そのほか、ストーブが欠伸《あくび》をしたの、卵の黄味が皿の中から白眼《にら》んだの、昨夜帰りがけに、向うの辻の赤いポストの位置が違っていたの、パン焼竈《やきがま》が深夜に溜息をしたの、画像が汗を流したの、机の抽出《ひきだ》しから白い手があらわれてオイデオイデをしたの、ピストルが自分の方を向いてズドンといったの……というような奇怪現象が、科学文化のマン中に引っ切りなしに起って来るのは、みんな脳髄の疲労から起る、反射交感事務の間違い……すなわち意識の夢中遊行に外ならないのだ。
ところで前にも断った通り、この程度の精神異常だったら諸君の中にもザラに在るのだ。しかもこの程度の連中は、自分でもウスウス自分の精神異常を自覚しているので、ウッカリ気違い扱いにすると、益々病状を昂進させる虞《おそ》れがあるから、わざと精神病者の数に入れてないのであるが、コイツが今一歩進んで来るとトテも放ったらかしておけなくなる。金箔《きんぱく》付の発狂となって、赤煉瓦のアパート生活に、護衛付の資格が出来て来るのだ。
吾輩……アンポンタン・ポカンが今日まで御厄介になっている九州帝国大学の精神病科教室には、ソンナ連中がウジャウジャ居たもんだ。しかも、ソンナ連中を代る代る教壇へ引っぱり出して、そこの主任の正木キチガイ博士が生徒に講義をするのを聞いてみると、チョウドこの吾輩、アンポンタン・ポカンが考えている通りの事を饒舌《しゃべ》っているから面白い。
「……エヘン……人間の脳髄というものは、今も説明した通り、全身の細胞の意識の内容を細大洩さず反射交感して、一つの焦点を作って行くところの複合式球体反射鏡みたようなものである。人間の脳髄が全身三十兆の細胞の一粒一粒の中を動きまわる意識感覚の森羅万象《しんらばんしょう》を同時に照しあらわしている有様は、蜻蛉《とんぼ》の眼玉が大千世界の上下八方を一眼で見渡しているのと同じ事である。……ところでその人間の脳髄によって、時々刻々に反射交感されて、時々刻々に一つの焦点を作って行くところの精神……すなわちその人間の全身の細胞の一粒一粒の中に平等に含まれている、その人間の個性とか、特徴とかいうものは、吾輩の実験によると一つ残らず、その人間が先祖代々から遺伝して来た、心理作用の集積に外ならないのだ……すなわち、その先祖代々が体験して来た、千万無量の心理的習慣性のあらわれが、脳髄の反射交感作用によって統一されてお互いに調和を保ち合いつつ、焦点を作って行くのを所謂《いわゆる》、普通人と名付けているのであるが、しかし……人間の心理作用というものは一人一人ごとに、それぞれ違った癖があるもので、その癖を先祖が矯正しないまま子孫に伝えて来ると、代を重ねるうちにダンダン非道《ひど》くなる事がある。たとえば或る一つの事をどこまでも思い詰める癖を遺伝した女が、どうかした拍子に或る一人の男を見初《みそ》めたとする……寝ても醒めても会いたい、見たい……一緒になりたいといったような事ばかりを繰返し繰返し考え続けて行く事になると、そうした『恋しい意識』を反射交感する脳髄の一部分がトウトウくたびれて動けなくなる。そこでその一部分で反射交感されていた恋しい意識が、次第次第に遊離して、空想、妄想と凝《こ》り固まった挙句《あげく》、執念の蛇式の夢中遊行を初める。夜も昼もさま[#「さま」に傍点]のお姿を空中に描きあらわして、その事ばかりを口走らせるようになる。そうなると又、その恋しい係りの交感台の交感嬢がイヨイヨやり切れなくなってヘタバリ込む。恋しい意識がイヨイヨ完全に遊離して活躍空転する。ますます発狂の度合が深くなる。
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