ちにノートか何かに書き止めておき給え。学生諸君には特におすすめする。この第三条が脳髄衛生学の初め終りで、諸君の持病といってもいい神経衰弱は、要するにこの規約から生まれた病気に外ならない……否……人類の中でも文化民族と自称する者の大部分は現在、この第三条の規約に引っかかって、精神的の破産、滅亡状態に陥りつつあるのだから……。
 と……いうのは他の理由でもない。今まで説明して来たところでもアラカタ想像が付くであろう通りに脳髄局のポカン式反射交感機は、構造が非常にデリケートに出来ているのだから色んな故障を起し易いばかりでなく、その故障箇所の取換えが、なかなか急に行かない。だから止むを得ずコンナ応急手段的な規約が設けられているのだ。
 しかも、こうした脳髄局に於ける反射交感の応急規約、第三条の存在を最も有力に、簡単明瞭に証拠立てて、脳髄が作り出した地上一切の怪奇現象のカラクリの種明しをするのに持って来いの第一例というのが、ツイ今しがた引合いに出した『泣き中気』『笑い中気』だから愉快ではないか。
 すなわち脳髄の中の或る一個所……たとえば『笑い係り』の交感台が、脳出血のために麻痺して、反射交感が不能になると、そこで反射交感されていた『笑いの電流』だけが第三条の規約通り、ほかの意識との連絡を失って遊離してしまう。そうして脳髄以外の全身の細胞が元始以来遺伝して来ている反射交感の機能を先廻りに使用しながら、何でもカンでも無暗矢鱈《むやみやたら》に笑わせるのだ。ほかの『怒り』や『悲しみ』の電流が動きかけても、その電流が中央の反射交感台を遠まわりして来るうちに、遊離している『笑いの電流』の方が、直接に全身の細胞を馳けまわって、先へ先へと笑い散らかして行くのでほかの感情が外へあらわれる隙《すき》が無いのだ。これが俗に『笑い中気』という奴で『怒り中気』でも『泣き中気』でも、みんな、おなじ理屈で起るのだ。
 いうまでもなく、これは脳出血から来た故障だから、病理解剖をして頭の蓋《ふた》を取ってみればすぐにわかる。……『ハハア。ここが笑いの電流を交感する処だな』……という事実が一目瞭然する訳であるが、しかし、実をいうとコンナ風に、肉眼で見える脳髄の故障というものはドチラかといえば例外に近い方で、まだこのほかに眼に見えない脳髄の故障が演出する怪奇現象の種類がドレ位あるか、わからない。所謂《いわゆる》エロ、グロ、ノンセンスのモノスゴイところを取交《とりま》ぜて科学文明の屋根裏から地下室……アタマ文化の電車通りから横路地に到るまで、昼夜不断にウヨウヨヒョロヒョロと、さまよい廻っているのだ。……のみならず、その怪奇現象ソレ自身の一つ一つが又、ソックリそのままに、聴診器にも這入《はい》らず、レントゲンにも感じないデリケートな脳髄の故障を、一つ一つにハッキリと証拠立てているから面白いではないか。
 まず第一に、何よりも憤懣に堪えないのは、現代の所謂『物を考える脳髄』諸君が、その脳髄ソレ自身と全身の細胞との間に、こうした第三条の応急規約が存在している事実を、夢にも気付かないでいることだ。……だから『脳髄なんかイクラ使ったって減るもんじゃない』とか何とか云って、ヤタラに頭を抱えたり、首をひねったりして、無理にも脳髄に物を考えさせようとする習慣を一人残らず持っていることだ。……脳髄が物を考える処でない……単純な反射交感専門のアンポンタン・ポカン局……という事実にミジンも気付かないで、物を考える専門のお役所みたいに心得て何でもカンでも脳髄に考えさせようと努力している事だ。……電話交換局に市役所の仕事を押し付けて平気でいることだ。
 そのために脳髄局の交換手たちがドレ位、事務の過重負担に悩まされているか……そのためにドレくらい思い切った反射交感事務の間違い……幻覚、錯覚、倒錯観念の渦巻きを渦巻かせているか、殆ど想像も及ばないであろう。
 論より証拠……事実は眼の前だ。
 アンマリ脳髄で物を考え過ぎると、電流を通じ過ぎたコイルと同様に、脳髄の組織の全体が熱を持って来て、その反射交感の機能が弱り初める。そうすると全身の細胞に含まれている色んな意識が、お互い同志に連絡を喪《うしな》って、めいめい勝手な自由行動を執《と》りはじめる事になる。ソイツが軽い、半自覚的な、意識の夢中遊行となって、全身の細胞が作り出している意識の空間を無辺際に馳けまわるのだ。……諸君が何か知ら考え詰めてアタマの疲れた時分にウットリと凝視している、アノ取止めのない空想とか、妄想とかいうものがソレで、そのうちに脳髄がイヨイヨ疲れて眠り込んで来ると、そんな意識同志の連絡もイヨイヨ絶え絶えになって来る。そうして次第次第に辻褄の合わない夢になって行く状態は、諸君が小説を読みさして眠りかける時だの、教室や電車の中で舟を漕《
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